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午後三時過ぎ、地図アプリに導かれ守屋がたどり着いたのは、外壁に
清澄白河駅から徒歩十分ほどのそのエリアは、一見すると住宅街のようだが、とつぜん小洒落たカフェがあったりして、普段新宿や池袋のチェーン店しか使わない守屋にとっては、全く馴染みのない場所だった。しかし、昨日会った伊勢の風貌や雰囲気を思い出すと、なるほどこういった場所がしっくりくる。
目の前の平屋自体はそう洒落た印象ではないが、昼間の太陽を受けた蔦の葉が濃い緑色に輝いて、妙に絵になるように思えた。
入り口とそれに連なる壁はガラス張りになっているが、ブラインドが下りている。何かの店らしい作りだが、看板などは出ていない。呼び鈴もないので、守屋はガラス戸をノックして、「伊勢さーん、守屋です」と声をかけた。
中から足音が近づいて、ドアが開く。
「守屋さん、どうも」
顔を出した伊勢は、昨日とは違い髪を一つに束ね、デニムのエプロンを身に着けていた。
「どうぞ入ってください、汚いところですけど」
言われるがまま室内に足を踏み入れた守屋が最初に知覚したのは、匂いだった。
革の匂い。
そして目を上げると、
靴。靴。靴。大きな機械がいくつか。
外から見るより奥行きのある室内の、一面の壁にはずらりと靴が並べられ、反対の壁にはラックがあり、筒状に巻かれた大量の革が積まれている。そして奥には、見たことのない大きな機械があって、中央には作業台だろうか? 天板が斜めになったテーブルと、ミシンや他の小さめの機械があった。
「すごい……伊勢さん、靴職人さんだったんですね」
「半ば道楽みたいなものですよ。椅子が固くてすみませんが、どうぞくつろいでください」
伊勢はミシンのところにある椅子を窓際まで持っていき、その上にクッションを置いた。背もたれもないその椅子は確かに固いが、初めて見る靴工房の様子に好奇心を刺激された守屋には全く気にならなかった。
伊勢は作業をしながら、自らの仕事のことをぽつりぽつりと語った。
曰く、実家が太く、金のことは気にせずに好きなことが出来ているのだという。職人になりたいと思ったのは大学を卒業してからで、当初はそこそこ良い企業に就職していたが、どうにも会社員が肌に合わず、自分のペースで出来る仕事をしたいと思ったそうだ。もともと手先は器用な方で、何かを作る仕事がしたかった。靴に対して強い思い入れがあったわけではないが、調べてみれば構造が面白く、二年ほど専門学校で学んだ後小さな婦人靴メーカーに入り、三年勤めて今度はデザインから製作まで自分で行うこのブランドを立ち上げたという。
守屋には革靴のデザインの良し悪しはわからないが、並べられた靴はどれもシンプルで洗練されているように思えた。
なにより、革を切り出し、
「明日は革の買い付けに行きます。守屋さんも一緒に来ますか?」
と伊勢が言うので、次の日は浅草駅で待ち合わせることになった。
守屋があくびを噛み殺しながら浅草駅前で待っていると、いかにも商用車といった風情の軽ワゴンが目の前に停まった。
「おまたせしました、守屋さん」
助手席側の窓を開けて顔を覗かせた伊勢は、その車とあまりに似合っていなくてなんだかおかしかった。
その日はいくつかの卸問屋と製靴用品店を回った。それぞれの店とは顔馴染みのようで、雑談をする様子を眺めているうち、伊勢が冗談を言うタイプだと初めて知った。
「記者さんは伊勢さんのとこのブランドを取材してるの?」
伊勢と話していた店主にそう水を向けられ、「ええ、まあ……」と愛想笑いを返す。伊勢のあの趣味のことはさすがに口外しない。
とまで考えて、そういえば出会ってから今日まで、本題であるはずのその趣味の話を一切聞けていないことに守屋はようやく気がついた。うまく相手のペースに乗せられている。これで記事になるのだろうか、と一抹の不安が
――まあ、実際の現場が見られるっていうんだから、これは投資のようなものだ。
理性ではそう思うものの、もっと感情的な部分で守屋は、とっくに取材続行を決めていた。
伊勢の話をもっと聞きたい、この男のことをもっと知りたい。先程からの行く先々での様子を見ていてもわかる。この男にはそういう、独特の魅力があるのだ。決して口数が多い方ではないが、それでいて陰気な印象はなく、おだやかさと知性をあわせ持つその語り口や振る舞いに、知らず知らずのうちに魅了される。守屋だけではなく、問屋の店主たちも皆そうなのだろう。人たらし、と呼ばれる部類の人間だと守屋は思った。
数日、伊勢の仕事を見学した。結局趣味の話は未だに聞けていないが、それであればいっそ別の媒体に「気鋭の靴デザイナー」として伊勢の紹介記事を持ち込めないかとさえ考え始めていた。ファッション系の仕事のツテはそう多くないが、そちらに繋がりそうな仕事先ならいくつか心当たりがある。
脳内でそういったコネクションをリストアップしながら守屋が目指しているのは、いつもの清澄白河の工房ではない。今日は仕事をオフにするということで、麹町にある伊勢の自宅に招かれている。
立ち並ぶ高級マンションの中でも、一等立派な建物が伊勢の住居だというから、守屋は舌を巻く。こんなところ、一生縁がないと思っていた。部屋番号はさすがに最上階ではなく(とはいっても高層階ではあった)、そのことになぜだか少し安堵した。
「守屋さん! 待ってましたよ」
部屋の扉を開けた伊勢は、最初に会った時ぶりに髪を下ろしていた。結わえている方に見慣れてきていたので新鮮に感じる。にっこりと笑んだ口元も、初めのうちはどことなく食えない印象だったのに、今では人懐こい笑顔に見える。
「すみません、お休みの日までお邪魔しちゃって」
「いいんです、僕こそちょっと趣味にお付き合いいただきたくて」
そう言われて守屋は身構えた。趣味とはあの趣味のことか? もちろん話は聞きたいが、今日自分自身が体験するという心構えは全く無かった。明日には例の会があるというから、てっきりそこでやるものだとばかり――。
狼狽が表情に出ていたのだろう、伊勢はプッと吹き出して軽やかに笑った。
「あ、守屋さん、違いますよ。例の趣味じゃないです。全く無関係ってわけでもないですけど」
唐突に、電子音のメロディが響いた。
「ちょうど焼けましたね。すみません、適当に座っててください」
伊勢はくるりと踵を返して先に行ってしまったので、守屋はその後を追った。
「うわ……」
廊下を抜けた先には軽く二十帖は超えるであろうリビングダイニングが広がっていて、更に目一杯大きく取られた窓からは緑豊かな皇居が眺望できる。ドラマでしかみたことがないような光景に、守屋は口をあんぐりと開けることしか出来なかった。
「ソファのほうが景色がいいですから、そっちにしますか」
伊勢の声がして振り返ると、カウンターキッチンで何やらオーブンから取り出してるところだった。濃厚な甘い香りが漂う。
「守屋さん、チョコ好きですか?」
「はい、まあ人並みには」
「よかった。ガトーショコラ焼いてみたんです。飲み物は何がいいですか?」
「じゃあコーヒーで」
「わかります、チョコ系にはやっぱりコーヒーですよね」
座って待っててくださいね、と伊勢に重ねて言われ、守屋はようやく腰を下ろした。
バニラアイスが添えられたガトーショコラも、コーヒーも、どちらも美味かった。
「もともと料理はしなかったんですけど、例の会で触発されて……とはいえ、始めてみたらお菓子作りのほうが向いてましてね。準備したらオーブンに入れっぱなしで良いので……料理は難しいですよ。同時に色々やるのはどうも苦手みたいで」
眉をハの字にして笑う伊勢は、本当に屈託のない様子だった。守屋は最初のカフェでの会話を思い出す。悪趣味なモノとそうでないモノ、フツウの人とそうでない人、それらは相容れないものだと思い込んでいたが、そんなことはない。
「……俺、今日まで伊勢さんの取材をさせてもらって、なんか反省しちゃいました」
守屋の唐突な告白にも、伊勢は動じず、小さく首を傾げて先を促す。
「特殊な趣味の人ってきっと特殊な人だろうってどっかで思ってたんすけど、伊勢さんは全然そういう人に思えない……というか、そういう人っていうのがそもそも偏見だったんだなって。でも、伊勢さんのおかげでその偏見がきれいサッパリなくなりました」
守屋は笑った。伊勢も笑い返してくれると思ったのだが、いつもの微笑みのまま首を反対に傾けた。栗色の巻き髪が揺れる。
「守屋さんは最初に会った時から変わってないと思いますよ」
その言葉の意図が、守屋にはわからなかった。
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