暁が暮れる

カタスエ

第1話

 朝国では、少将以上の階級の者に個人の執務室が与えられる。クリスはそこへつながる通路で、もう半刻近く足止めを食らっていた。

「ですから、何度も言っているでしょう。アトリ少将に取り次ぎを頼みたいと」

 決して声は荒げない。そんなことをしては相手の思う壺だ。にやにやとこちらを見つめる屈強な男たちを前にしても、クリスはしっかり背筋を伸ばし続けた。こういう時、自分の背が高いことには感謝する。敵でもあるまいし、恐れる相手ではないが、それだけで舐められる要素は一つ減る。見上げるしかなければ、さらに彼らはクリスを下に見るのだろう。

 とはいえ、ことは一刻を争う。こんなことをしている場合ではないのだ。クリスはつい手を握り締めてしまい、慌てて持っていた手紙に皺ができないよう、慎重に力を抜いた。思わず長く吐き出してしまった吐息が気に障ったか、立ち塞がる男の一人がふんと鼻を鳴らす。

「女騎士様が少将になんの用事だあ? そっちのことはそっちで解決してくれよ、それともなんだ。お飾りの騎士様にはそんな力もないってか」

 それを聞いた彼らの内で、ガハハッと笑いが巻き起こった。部下がいなくてよかった。彼らがいれば殴りかかりかねない。微笑みの皮一枚下に全ての感情を押し込めて、クリスはただ、彼らが道を開けるのを待つ。ピクリと眉が動きかけたが、呼吸を止めて何とかやり過ごした。ここで彼らと喧嘩をしても、何の解決にもならない。騎士と兵士が相容れないのは今に始まったことではない。そんなことで時間を使うことすら今は惜しい。

「邪魔です、どいてください」

 どうしたものかと内心眉を顰めたクリスの背後で、突然、涼やかな声が転がった。

「アトリ少将!」

 先程までクリスに絡んでいた男たちが、突如姿勢を正し敬礼を行う。いつ戻ってきたのか。クリスが振り返った先に、大量の本を腕に抱えた、背の低い男が立っていた。

「アトリ少将」

 高く積み上がった本の影から、まだ幼い容姿を残したアトリが顔を覗かせる。金の瞳で鏡のようにクリスを写し、静かな瞬きの後、その横をあっさり通り過ぎていく。

「少将、お話が」

 咄嗟に呼び止めたクリスを肩越しに振り返ると

「読書の妨げにならない程度でお願いしますね」

 それだけ言って彼は、自室の扉の先へ消えていった。クリスは男たちが何か言いたげに様子を窺うのを完全に無視し、アトリの背中を小走りで追っていく。閉まりかけの扉に体を滑り込ませると、埃っぽい匂いが鼻をくすぐり、迫り上がったくしゃみをすんでで堪えて鼻を啜った。

 アトリの執務室へ入るのはこれで二度目である。そこは、いつ来てもクリスを圧倒した。何と言っても見渡す限りの本、本、本。本の山だ。古今東西の歴史書や兵書はもちろん、物語や語学書、宗教書、子どもが読むような絵本までが所狭しと棚に押し込まれる。それどころか執務用の机や床までもが本に埋もれ、一体どこで執務を行っているのかと疑いたくなるほどである。

 アトリは肘を使って無理やり机にスペースを作り、抱えていた本をそこへ置く。代わりに倒れそうになった本の塔を、その磨かれた瞬発力で何とか防いだ。均衡を保ったのを確認したところでやっと彼の体から力が抜け、ようやくと言ったふうにクリスを振り返る。きょろきょろと視線を彷徨わせた後、本の影から一脚の椅子を見つけ出し、おざなりな仕草でクリスに座るよう勧めるのだった。


「駄目ですね」

 話を聞いて開口一番。目の前を漂う紫煙の向こうで、アトリはゆるく首を振った。笑み以外の表情に乏しいと言われるクリスでさえ、彼の無表情さには負けるだろう。彼は淡々とクリスの要求を退け、話は終わりとばかりに吸っていた煙草を机上の灰皿に押し付ける。

「しかし」

「妹御からの手紙を無碍にしたいわけではありませんよ。しかしそれ一つでは軍を動かす理由としては弱い」

 それくらいお分かりですよね、ファロン准将。そう静かに口にされれば口答えもできない。分かっていたことだ。

 辺境の地、ダスク地方に位置するクロフォード家に嫁いだ妹から、国境付近がきな臭いとの連絡があった。今のところ私兵でどうにかできるレベルとはいえ、賊擬きも増え、民が不安を寄せることも多くなっていると言う。国境警備の人員は追加で派遣したばかりだが、来るかもしれない戦に備え、より強い兵を常駐できないかという頼みだった。

 アトリがコツ、と机を指先で叩く。落胆するクリスの視線を再び呼ぶと、静かに続ける。

「とはいえ、食糧を夕国からの輸入に頼り切っていた夜国の動きは確かに怪しくはありますね。我が朝の国から庇護を受けるため、夕国は一方的に夜国との同盟を解除しましたから」

 夜国は干魃も多い不毛の地だ。しかし織物技術が発展しており、それを夕国へと輸出する代わりに彼の国から食糧を輸入してきた。だが、夕国の内乱により、夕国には他国へと輸出するだけの食糧がなくなってしまった。それにより、夕国は同盟を一方的に解除。姫を我が朝国の王子へと輿入れすることで庇護を求めた。持参金もありったけ用意され、現在半ば属国のような位置づけとなっている。

 これにより困ったのは食糧を手に入れられなくなった夜国である。正直なところ、夜国が貿易を持ちかけたとして、朝国にあまり益はない。とはいえ夜国は属国へと落ちるつもりはないようで、その結果か、近頃不穏な動きを見せていると王宮でも度々話題に上がっていた。

「ですが、夜国からダスク地方へ侵入するには警備の厳しい夕国を通らなければなりません。攻め入るなら隣接しているアウローラ地方の方が容易い。その上ダスクは攻め落としてもその後の兵站が厳しい地。夕国からの援助も難しいとなると戦を続け、籠城することさえ困難です。クロフォード侯爵は人格者で知られていますから、万が一災害が起きても近隣の村々が暫く食べていけるだけの食糧を確保してはいましょうけど、それだけを頼りに攻めるのは、あまり利がないように感じます。王都からもかなり遠いですしね」

 抑揚のない声で告げられていく事実はクリス自身も考えたことで、だからこそ説得に窮し、言葉に詰まる。できれば突っ込まないでほしいと願っていたが、やはりアトリは情に流されるような男ではなかったということだ。そしてそれは朝国の将が優秀である証左でもある。准将の位をいただくクリスが責めることなどできない。

 アトリが言うように、現在夕国は朝国よりも警備が厳しい。内乱直後より、朝国の王族が夕国各地に派遣され、視察という名の統治を始めたからである。そのため、夜国がわざわざ夕国経由でダスクに向かう理由がなかった。

 その上ダスクは乾燥した草原地帯で食物が育ちにくく、決して豊かとは言い難い。さらに妹が嫁いだ際、ファロン家から精鋭の私兵を連れて行ったことは王都でも有名な話だ。ファロンの兵が王都を守るとも言われるほどファロン家の私兵は高名で、だからこそそれを連れて行ったダスクも、大きな戦にさえならなければ十分な戦力は端から備えている。

 そう思うのに、何故か胸騒ぎがした。何とか言い募ろうと唇を舐めて濡らす。しかし先に言葉を発したのはアトリだった。

「——もっとも、クロフォード侯爵から直々に奏上が届くようなら、すぐにでも出立の準備ができるでしょう」

 その言葉に、クリスはつい、息を止めた。

 積み上がった本の向こうで、アトリが長い睫毛を下ろす。手持ち無沙汰とでも言うように、手袋をしたまま、本の表紙をさらりと撫でている。窓の外で鳥が羽ばたく。薄い雲が青い空に色を描く。いつもと変わらぬ穏やかな空間で、空虚になった胸の奥がひやりとその存在を訴えた。

 女性の地位は弱い。下手をするとヒステリックになっているだけだと笑われて終わりだ。これだから女はと嘲笑されて相手になどしてもらえない。正当に助けを求めるのなら、主人である侯爵から。それは常識だ。女であるというだけで、危機を感じても王へ奏上を出すことさえ叶わないのだ。

 十代から騎士に名を連ね、年も武功も重ねてきたクリスだったが、准将の地位より上には恐らくなれない。女性だから。准将でさえ、アトリが推薦してくれなかったらなれなかったのだろう。上司が女だと言う理由で動かない部下が何十人といる世界である。

 だからこそ、アトリが侯爵から、と敢えて口にしたことにやはりと諦観の気持ちになる。アトリなら、と少し期待していた自分がいたのは事実だった。

 先程アトリに会わせることを拒み、クリスを笑った兵を思い出す。彼らの性根は気に入らないが、それは特段変わった態度ではない。女である上、騎士であるクリスをよく思わないのはこの国の兵士なら当たり前だ。

 この朝国の軍には、二種類ある。叩き上げの兵士と騎士だ。騎士は基本的に王家の守護を行い、式典などで表立って姿を現す謂わば『華やかで見かけの警備』が中心。クリスのように戦場へ出て行くことの方が稀である。それでも貴族というだけで王の覚えもよく、なりたての騎士であっても少尉から始まることが基本だった。

 対し、兵士は貧しい家柄のものが戦績を上げて地位を獲得する手段の一つでもあるため、いくら腕っ節にそこそこ自信があろうと、一兵卒から始まることが多い。そのため、兵士と騎士の間には大きな溝があるのが事実である。騎士はお飾りの仕事だと揶揄されることは日常茶飯事だ。

 目の前で静かにクリスを見上げるアトリは、幼い頃から軍に所属し、確かな戦績を上げてのし上がって来た兵士の希望だった。絶滅種ともされる妖精種とのハーフのためか、二十を越えた今でも十代半ばに見える。しかしながらその地位は少将と高く、今後の展望も期待されている優秀な男である。

 過去に一度だけ、クリスはこのアトリの指揮する部隊の補佐についた。決して逸れることのない狙撃手としての腕も見事なものだが、部下を差配する隙のなさ、そして人を区別することのない平等さが目を引いた。

 戦場にも書物を持ち込むほどの読書家で、作戦会議の途中に突然、読んでいた本が終わってしまったと嘆いた時には何も考えていないのではと疑ったものだが、すぐに悟った。あらゆる国の兵法や武器、伝説や慣習。知っている情報をただの情報で終わらせず、今に繋げることができる。物理的に強くなることを第一に考えていたクリスにはない、その強かさには舌を巻いたものだ。

 今目の前にある事実と今後に想定される事象、それをきちんと見抜いて行動できる。自分のプライドと利益を第一に考え、派閥争いをする者が多い中、彼は違った。騎士も兵士も女も男も関係なく、全てをただ一つの駒として、その人の本質と適性に見合った場所に動かせる。それがアトリという男だった。

 だからこそアトリなら、とここに来たのだ。

「……とはいえ、『貴女が個人的に』妹御の近況を窺いに行く、というのであれば、暫く暇を取れるよう、上に掛け合いますが」

 低くも高くもない、穏やかの中にも糸が張られたようなその調べを理解する前に、クリスは知らず俯いていた顔を上げた。

 どうなさいます、と続けるアトリの口調は先ほどまでと全く変わらない。しかしその言葉に、もやもやと絡み付いていた煙が晴れていく。准将としては認められないが、そんなに気になるなら様子を見に行けるよう、取り計らってくれるということだ。階級のあるクリスが異常を見受ければ、妹の願いを通すことも可能となる。

「あ」

「クロフォード侯爵は、希少本のコレクターとお聞きしますしね」

 ありがとうございます、と続けようとしたクリスの言葉をアトリが遮る。どこかふわふわと浮き足だった響きにほんの少し緩んだ口元。彼の金色の瞳がきらりと光って、はたと目が合う。

 クリスの双眸に浮かんでしまったであろう僅かな非難を、それでも彼は気にすることもなく再び煙草に手を伸ばした。

「もし同行を希望する部下がいれば、早いうちに名前を知らせてくださいね」

 ——アトリの思惑がどこにあろうと、クリスの目的と一致していれば非難などできようはずもない。善意のみ、ありがたく受け取ることにしよう。クリスは彼に対して深く頭を下げ、部屋を辞すため背中を向けた。

「……もっとも、起騒孤伏きそうこふくの計でないことを祈りますよ」

 閉まる扉の隙間でアトリが何かを言ったようだったが、それはクリスに届く前に締め出されて立ち消えていった。



「ファロン准将、祠が見えて来ました……!」

 部下のトラヴィスが、疲れの中にも明るく跳ねるような声音を交えて、クリスを見やる。何もない草原の向こうに、祠と、それに続く森が見えている。王都から遥々馬を駆けてきて早九日。やっとここまで来たと思うと、クリスの胸にも感慨深い思いが広がった。

「こんなところまでついてきてもらって申し訳なかったですね」

 ダスクの地は辺境だ。王都から遠いだけでなく、広がるのは何もない草原ばかり。比較的大きな街は、この森の奥にあるトラモント一つだけ。栄えた地が多い朝の国の中で、群を抜いて住みにくいとされる土地だった。とはいえ、助け合いながら生活をしなくてならないからこそ村々の繋がりは深く、仲間意識も強い。この地を長く治めているクロフォード侯爵への忠誠心も厚く、度々様子を見に来るクリスにも皆とても良くしてくれる。その温かさが、クリスにとってのダスクの印象だった。

 しかしながらダスクの地に足を踏み入れて半日。その間二つほど集落の近くを通ったが、一つはもぬけの殻、もう一つは人の気配こそあれ、声をかけても息を殺したように鳴りを潜めていた。いつもなら王都から知らせを送った刻を見て、ダスクに着いた時点でクロフォード侯爵が遣わせた迎えが来る。それが来ないことも、クリスの心のざわつきをさらに増幅させていた。

「とんでもないです! ファロン准将にお供できて光栄です!」

 そんな内心をおくびにも出さないよう眉を下げたクリスに対し、トラヴィスは大きく首を振る。その実直さは彼の良いところでも悪いところでもある。しかし今は、その裏表のない力強さに救われる思いがした。背後に続く部下にも目をやる。クリス直属の部下である彼らとは付き合いも長い。みな一様に、心からクリスを慕ってくれている。

「その期待を、決して裏切りはしません」

 たった一分隊、十五人。それがクリスが『独断』で動かせる人数の上限だった。


 深呼吸をすると、鼻先に湿った空気を感じる。青臭い樹々の香りが鼻腔を擽る。静謐な気配に包まれ、身体の中身が書き換えられるような新鮮な心地を味わう。トラモントが近づくと、そんなふうに、いつも身が引き締まるような気持ちになる。

 基本的にダスクはどこも植物の育ちが悪く、夕国、夜国にも劣らない食糧難とされる土壌がほとんどだ。そんな中、トラモントだけは違った。鬱蒼と茂った森の中には僅かながらも果実のなる樹や川があり、ダスクの拠点がここに集中するのも無理のない話である。

 とはいえ、その実りは暮らしていくにはあまりに少ない。国境付近に位置することもあり、夕国の商人が持ってきた夜国の織物を加工して他地域に売ることによって生計を立てているのが現実である。つまりはもっとも夜国の恩恵を受けている地域ではあるが、トラモントの価値は織物よりもその加工技術であるため、織物の直輸入を理由に、朝国への離反を迫られる心配はない。

 クリスはトラモントに続く小道との境で、愛馬リドの背から降りて入り口に祀られた祠を見つめた。風が汗を乾かし、優しく頰を撫でていく。厳かな空気が、森に入る前からクリスを包み込んだ。

 このトラモントには、古来より続く土着信仰が根強く残っている。クリスたちが辿り着いた祠もその一部である。

 心を静かにし、祠を前に片膝をついて首を垂れる。共に連れ立って来てくれた部下もクリスに倣い、馬を降りて膝をつき、礼を尽くす。続く小道は、日も差さないような木々の間を細く縫っている。

「カウリの神よ、不粋な理由で森に立ち入ることをお許しいただきたい」

 その昔、木々を大量に伐採したダスクの民に怒った神々が、辺り一面を何も育たない干からびた土地へと変えた。それにより食糧は全て尽き果て、多くの民が死んでいったという。神々の怒りを鎮めるため、当時この地を治めていた一族は三日三晩祈りを捧げて贄を差し出し、罪を贖った。その様子を見たカウリの神が民を哀れに思い、トラモントの位置するここにだけ、小さな森を作ったといわれている。

 だからこそこの森はダスク地方の中でも特に大切な場所とされ、本来であれば入る前に一日断食を行い、身を清め、戦装備は外した上で信仰心を示す必要がある。王都生まれ王都育ちのクリスにダスクの民ほどの信仰心はないが、ここの民がどれだけこの森を慈しんできたかはよく知っていた。しかし今回はそういう訳にもいかない。小さな祠にせめてもの供物をし、クリスはリドを引いて、部下と共に森の中へと足を踏み入れた。



 日が暮れ、木々の間から漏れ溢れるまだらな光さえ覗かなくなった頃、ようやくクリスたちは足を止めた。比較的夜目は効く方だが、夜間森の中で動き回ることはあまり得策ではない。カウリの森には昔から毒虫や毒蛇などはいないとされているが、賊が隠れていないとも限らない。用心するに越したことはないはずだ。

 風は朽ちかけた葉の柔らかな香りを運び、いつもと変わらぬ穏やかさを保っているように見える。戦場に感じるような、ひりつく空気の濃密さや、血の臭いなどはしない。

 妹の言う不穏は、単なる気にしすぎだったのだろうか。嫁いで十年経つが、彼女には未だ子どもができなかった。そのため、侯爵は半年ほど前に公妾を娶ったはずだ。妹は気位の高いファロン家には珍しく、一歩引いた慎ましやかな女で、穏やかを絵に描いたような人物である。公妾ともうまくやっているとの手紙をもらっていたが、時間が経って状況も変わったのかもしれない。公妾が孕めば、多少は居心地の悪い想いもするだろう。妹には悪いが、そうであって欲しいと思った。

 葉がカサカサと風に揺れる。遠くでパキ、と枝が折れる音がする。咄嗟に耳をそばだて気配を窺ったが、軽い音からして小動物の類が動いたのだろう。バサバサと鳥が羽ばたき、またすぐに闇に沈んでいく。動物を避けるため、熾した炎がパチパチと爆ぜた。

「准将、少し休んでください。ずっと気を張り詰めてお疲れでしょう」

「そうですよ、火の番はおれたちがしますから」

 トラヴィスの声に釣られて、他の部下もそうだと頷く。クリスは苦笑して、自信満々に胸を張る彼らに目を細めた。

「隠していたつもりだったんですけどね」

「おれたちが准将の疲れに気づかないとでも思いますか」

 不服そうにトラヴィスが口を尖らせる。三十歳一歩手前だったはずだが、その様子は子どものようだ。子がいないクリスに母心は分からないが、それでも健気で可愛い弟分である。

「じゃあお言葉に甘えて少しだけ」

 クリスは愛剣に手をかけ、何かあればすぐに抜ける準備をしつつも、木にもたれながら薄く瞼を閉じた。部下の好意を無碍にはしたくない。決して意識は失わず、周りに気は配りながらも軽い休息を取ることにする。慣れない人間には休みにならないだろうが、戦経験が豊富なクリスにはこれでも十分だった。

「——ッ」

 半刻ほど経っただろうか。クリスの耳が微かな音を聞き取った。咄嗟に瞼を開け、握った手に力を込めて立ち上がる。部下たちも同じように、険しい顔して音のした方へと警戒を向ける。

「——キャァ!」

 風に乗って聞こえる、微かな叫び声。気のせいではない。瞬時に部下たちへと目配せをして、火を消した。

「おれが様子を見てきます。准将はここでお待ちください」

「……わかりました。何かあればすぐに報告してください。深追いは禁止です。ジェフ、トラヴィスと共に」

「はい」

 強く頷いたトラヴィスとジェフが森の奥へと消えていく。クリスと残された部下は、背後を己たちで守りながら周囲への警戒心を張り直した。

 夜の森は静かで煩い。動物たちの気配、木々の騒めく声。その中にある歪な空気を感じ取らなければならない。

 逸る気持ちを押さえつけて冷静さだけを鋭利に研ぎ澄ます。剣を握り締めた手のひらに汗などかいてはいけない。クリスが得意とする処刑剣は、身の丈ほどの大きさだ。切るというより、重さで敵を殴り殺すと言う方が正しい。滑りでもしたら威力が鈍る。

「——ッ!」

 空気を伝わる歪な振動。その不快感が鼓膜を揺する。

「今のはトラヴィスの声では」

 側に控えるアランが、真っ青な顔をして呟いた。彼はクリス直属の部下の中では最も若く、戦経験が少ない。敵が見えない不安からガタガタと震え始めるアランに、周りの仲間が安心させるように声をかけるも青い顔はなかなか治らない。

「……二人はここで馬の番を。残りは私と共に来てください」

 ここで日が明けるまでじっとしていては手遅れになりかねない。クリスは決意を込めて、一歩踏み出した。

 木々が笑うように葉を揺らす。カウリの神が無礼を怒っているようにも聞こえた。

 音がした方へと向かっていくと、間もなく鼻が嗅ぎ慣れた臭いを嗅ぎ取る。眉間に皺を寄せ、最大限の警戒を向けて進んでいく。その匂いの元は、いくらもせぬ内に見つかってしまった。

「……トラヴィス、ジェフ」

 そこには土に横たわる二つの身体があった。

 喉の奥が締まり、奥歯を噛み締めて必死で感情をならす。動揺するな、そう自分に言い聞かせる。

 ジェフは首に真っ直ぐナイフが突き刺さり、トラヴィスは足と心臓に二つ、刃が刺さっている。光を失った瞳がぼんやりと夜闇を見つめ、既に息絶えているのが判別できた。騒めく部下を視線で止め、クリスは一人、前に出る。

「こ、来ないでっ」

 二人の死体の先には、少女が一人。金色の長い髪を振り乱し、自分の体を引きずるようにして土の上を這う。大きな瞳を潤わせ、クリスたちに怯えるかのようにこちらを見上げている。

「貴女は誰ですか」

「あ、あなたたちこそ誰よっ? ダスクの人じゃないわよね。さっきの人たちの仲間? 家族だけじゃなくてあたしまで殺すの?」

 潤んだ赤い双眸がクリスを睨みつける。その目尻から、涙が一雫伝う。大きく震える体で土を掴みこちらへと投げつけるが、それはクリスには届かずに再び地面へと舞い散った。

「さっきの人たち、とは何ですか」

「惚けないで! 向こうの村から逃げてきたのを追いかけて来たんでしょう!? あたしを庇ってくれたそこの人たちを殺して、トラモントへと逃げたと思ったのに!」

 全身全霊の金切声がクリスを詰る。荒い息遣いが興奮の間から漏れ、自分の身を守るように胸を掻き抱いている。戦闘には向かないであろう巻きスカートはクリスにはあまり見慣れないが、そこから覗く細い足が、彼女の弱さを物語るようだった。

 クリスが一歩近づくと、彼女が一つ後ろに下がる。

「准将」

 部下が警戒するようにクリスを呼ぶ。その僅かな動作にさえ、少女はびくりと体を震わせる。部下にそこから動かぬよう目配せをし、クリスはさらに距離を縮めた。

「私たちは彼らの仲間です」

「……ほんとう……?」

 疑り深く少女がこちらを見上げる。それに強く頷き、彼女から少し距離をとったところで片膝をついた。

「貴女の名前を教えていただけますか」

「……ラディア」

「ラディアさんですね。もう一歩、近づいてもいいですか」

 迷うように視線を彷徨わせる彼女を辛抱強く待つと、ラディアは決意を固めたようにクリスを再度見上げ、こくんと頷いた。それを見てクリスは立ち上がり、さらに距離を縮めていく。一歩、二歩、三歩。焦れるような速度で、ゆっくりと近づき、もうあと一歩というところでラディアが勢いよく立ち上がった。

 ほとんど反射神経の域で、クリスは首に伸ばされた『それ』を掴んでいた。細くて、温かい、手首だった。

「……チッ」

 先程までの弱々しさを僅かも見せず、鋭い瞳がクリスを見上げる。手の先にはナイフが握られ、その切先はほんの少しのズレもなく、クリスの首へと向けられている。

「ずいぶん卑怯なご挨拶ですね」

「卑怯? 聞いて呆れるわね。戦争は勝った方が勝ちなのよ。お綺麗な『試合』がしたいなら、お城に帰って剣術ごっこでもしていなさいな、騎士様?」

 不敵に笑う口元がクリスを嘲る。何を、と憤る部下たちを目線で宥め、代わりに鋭くラディアを見下ろす。

「申し訳ありませんが、騎士には騎士のプライドがあります。確かにお飾りだと揶揄されることもありますが、飾りではない人間もいるんですよ」

「痛ッ」

 クリスがその細い手首を強く握り締めると、ラディアは小さく声をあげ、顔を顰めた。

「……なんて、かっこいいことを言ってみたりして」

 逃れるために蹴りを繰り出そうとしたのだろう。片足が地から離れたのを見て取ると、逆にその足を払い、浮いた片手を彼女自身の体重で塞ぐようにして地面に押さえつける。

 それでも暴れようと身を捩る、彼女の手からナイフが落ちる。それを見て瞬時に背中の後ろに組ませ体重をかけると、空いた手でラディアのスカートの隙間に手を伸ばした。

「なっに、すんのよ! この変態!」

「同性ですからそこはご寛恕くださいね」

 滑らかな肌を弄ると、指先が想像通り腿のホルスターに触れる。慎重にナイフの柄を掴み、一本二本と引き抜いては投げ捨てていく。その様子を固唾を飲んで見守っていた部下が、弾かれたようにナイフに向かって動く気配を感じ、クリスは鋭く口にした。

「素手では触らないでください。恐らく、毒が塗られています」

「……知っていたの」

「毒のことですか、それとも貴女のことでしょうか?」

 不快そうに口を閉ざすラディアのホルスターから、次々とナイフを投げ捨てる。合計十八本を投げ捨てたところで、両足のそれが空になったようだった。

「ナイフは致命傷に刺さっていました。なので死因を聞かれれば刺殺となるでしょう。しかし傷口の変色が、以前見たことのある毒死体と似ていました。貴女のことは存じ上げませんが、ダスクの民は手の甲に刺青をいれます。貴女の手は真っ白で綺麗だったので演技かと」

「全て分かって近づいてきたのね。クリスティーナ・ファロン。あなたを甘く見ていたわ」

「私のことをご存知でしたか」

「ハハハッ」

 ラディアが突然、大声で笑い出す。心底おかしいとでも言うように、動きを封じられた身を捩らせ、首を限界までこちらに向けると歪めた唇でクリスに言う。

「家の紋章を掲げた軍衣に剣。一般庶民がそんなものをつけられると思う? ファロンの名を知らなくても、お偉い貴族様なんだと誰だって分かるわ。少し詳しい人間なら、ファロン家の女で階級を持つ騎士の名前くらい知ってる。あなたのような人間を見ると心底吐き気がするのよ。気楽に生きられる地位を持ってるくせに戦場に来るその死にたがり精神にもうんざりする!」

「ッ!」

 声に込められた殺意に対し、押さえる力を強めた時だった。チク、と彼女に乗り上げる足に痛みが走った。咄嗟に下を見ると、ラディアの指に嵌められた指輪からは小さな針が出ていて、それを刺されたのだろう。覆いの少ない足からは赤い血が滲んで、その痛みをじくじくと訴えていた。

「全身に毒が巡るまで一日ってところかしら。ゆっくりじわじわと痛みが回ってすぐに動けなくなる」

 さっきまでの殺意から一転、ふふっとラディアは楽しそうに笑うと、恐ろしく丁寧な動きで綺麗に微笑む。血のように赤い口紅が弧を描き、それを見ていた視界が唐突に歪んだ。体が自立を保てず、熱い呼吸が口から漏れていく。

「准将!」

「動かないで!」

 ラディアが身を捩ってクリスの下から這い出すのに、僅かもかからなかった。指輪の針はしっかりとクリスの首に向けられ、部下たちを牽制する。構うな、と口にしようにも、声を出すことすら怠かった。手の力が抜け、剣が手の間から擦り抜けていく。気づけば立場が逆転し、クリスの背には柔らかな土の感触が広がっていた。

「よく見ると綺麗な顔をしているじゃない」

 ラディアの指先がクリスの頬を撫でる。楽しげに耳を撫で、唇に触れる。何を、と思う間もなく彼女の顔が近づいて、金の髪が視界から彼女以外を遠ざける。

 優しい感触が、唇に触れた。その瞬間、ひりひりと焼けるような痛みが口を襲って勢いよく身を捩った。

「どう? 部下の前で唇を奪われるのは」

 トン、と胸元を指先で叩かれる。辱められたその屈辱が、痛みに揺らぐ。ラディアに押さえつけられているだけではない。既に体が痺れ始めて動きにくい。それでも死に物狂いで唇を拭う。しかし痛みは消えず、ひたすら声にならない声で悶絶するほかない。

「もしもの時用に口紅に毒を混ぜ込んであるの。日々体を慣らしているあたし以外の人間なら、持って精々一刻かしら」

 楽しそうに嬌声をあげるラディアが、クリスを見つめたまま唐突に動いた。その途端、部下たちの方で悲鳴が上がった。涙でぼやける視界の先で、部下がまた一人、倒れている。

「動かないで、って言ったはずよ」

 ラディアの手には新たなナイフが握られており、さっき捨てたもので全てではなかったのだと知る。よく見ればコートの下からは小さなポーチが覗いていて、手に持つナイフはそこから補給したのだと絶望の中で悟った。名も知らなければ年端もいかない少女一人だと、警戒を誤ったクリスのミスだ。

 口が急速に渇いていく。この中で一番強いのがクリス、その次がトラヴィス。たった十五人と言えども戦経験はそれなりにあるものがほとんだ。それなのに、たった一人の少女を相手にこの様である。

 荒い呼吸を無理やり鎮める。落ち着かなければ。心拍数が上がればその分早く毒が回る。少しでも時間を稼ぎ、せめて部下に逃げてもらわなければ。この窮状を、王都へ。早く。

「ば、あや……」

 掠れる声が、祈りを呟く。その瞬間、ラディアの耳元で風が巻き起こった。

「お呼びですか、お嬢様」

 その声と共に、ラディアの先にあった木の幹に短剣が突き刺さる音が聞こえる。彼女が驚きで見開く瞳の先には、いつの間にか一人の老女が現れていた。

「何て様ですか、お嬢様。そんなんじゃ私の弟子とは言わせませんよ」

「すま、ない……ばあや……」

 ひくつく頬でクリスが苦笑いを浮かべる。ばあやはいつ見ても全く腰の曲がらない姿勢の良さでクリスを見下ろし、呆れたように息をつく。今にも意識を失いそうな主を見ても焦る様子すらない。子どもの喧嘩でも見るような勢いでクリスに近づき、呆気に取られたラディアが振り下ろすナイフをあっさり避けては、彼女をいとも簡単にクリスの上から引きずり下ろす。立て続けに向けられるラディアの攻撃を意にも介さずクリスだけを見、懐から取り出した薬を、クリスの口に無理やり押し入れる。

「あなた何者!?」

 ラディアが息を荒げてばあやに叫ぶ。ナイフも蹴りも全ての攻撃を簡単に避け切ったばあやは、今更彼女に気づいたとでもいうように、やっとラディアへと顔を向けた。

「ファロン家の乳母であり、お嬢様の教育係ですが、何か御用でしょうか」

「なっ……」

 見た目は老女でも、彼女は精鋭ばかりと名高いファロン家の私兵を教育した元軍人。今よりさらに女性差別が酷かった時代、名家出身でもなかったばあやはのし上がることも許されなかった。その力を惜しく思い、ファロン家に迎え入れたのが父だ。

 薬を飲み込み、何とか起こした身を木に凭せ掛ける。何を飲まされたのか分からないが、ばあやがくれたものならもう問題ないという安心感があった。

「この先に、ファロン家の私兵も大勢控えておりますがまだ戦われますか」

 クリスは承知している。アトリがクリスの行動を許可した理由の一つはこれだ。もし万が一、ダスクに何かあったとしてもファロン家には多くの私兵がいる。軍から連れて行けるのは自分含めて十五人だとしても、実はその何十倍という数を動かすことができる。その上貴族の中でもファロン家の私兵は有名だ。王都からの援軍が遅れようと、持ち堪えることはできるはずだ。

 とはいえ、彼らは軍の規律ではなく、ばあやの指示で動く。そのばあやは、クリスが呼ぶまで何があっても動くことはない。それは恐らく、クリスが死に倒れても。それがばあやの教育だった。

 うっすらと闇が明けていく。木々の隙間から、仄かな光が落ち始める。止まっていた時が動き出すように、トラヴィスたちを弔うかのように、日が注ぐ。その柔らかな光が眩しくて、クリスはつい目を細めた。

 ラディアが形勢の悪さを悟ってじりじりと後退していくが、その背後にも恐らく私兵がいるだろう。もう彼女に逃げ場はない。捕らえるためににじり寄っていたばあやが、しかし不意に立ち止まった。ラディアも何かを感じ取り、顔を動かす。クリスの耳と、座り込む地面にも、異変を感じた。

 ——何かが、来る。

「ファロン准将!」

 カウリの森では馬から降りるのが常識だ。そんな中、一頭の馬が砂埃をあげ、こちらに向かってくるのが見える。叫ぶ声は鬼気迫る様子で、何かが起こったのだとすぐに分かった。

「……セシル殿?」

 アトリの下につく男だ。伝令としてよく走り回っている。

「ファロン准将!」

 血相を変えたセシルが、クリスを認めて馬を降りる。広がる惨状に驚くも、受けた仕事を全うすべく、すぐに片膝をつき礼を行う。

「アウローラ地方が敵襲に遭い、城が落ちたとのこと! 夜国はその勢いのまま王都へと向かっています。急ぎ戻るよう、アトリ少将からの伝言です!」

「アウローラが……落ちた……?」

 アランの呟きがクリスの心を代弁する。サッと血の気が引いた。アウローラは王都に近い。そして王都には私兵で有名なファロン本家があるが、今大半の私兵はここにいる。

「ふふっ、はははっ」

 緊張で溢れ返った空気を震わせる哄笑が響く。ラディアが、抑えきれないというように、肩を震わせて笑っている。

「……まさか」

「ああ、おっかしい。簡単に呼び出されてくれるんですもの、あなた」

「何ですって……」

 クリスがここへ来たのは妹からの手紙があったからだ。妹がクリスを騙すはずがない。彼女だって、ファロン家の後ろ盾がなければ困るのだ。子が産めない身で後ろ盾がなければ、正妻の立場だって危うくなるだろう。

「そういえば、ダスクを治める侯爵様は何というお名前でしたっけ? あなたよりもっと夜の色の髪をして、あなたと同じように背が高くて、耳の後ろとおへその右にほくろがあって、口付けの時に絶対に目を閉じないっていう、あの人のお・な・ま・え」

 踊るような口調で楽しげに語るラディアの言に背筋が凍る。服で隠れるほくろの位置など、民が知るはずもない。王でもないのだから、衣服を侍従に着せてもらうなどということもない。むしろクロフォード侯爵は自分のことは自分でという主義を持つ方だ。それは、どう考えても閨を共にする人間でしか知り得ない情報だった。

 妹であるはずはない。よって。

「……公妾」

 ふわり、と花がゆっくり開くような優しさでラディアが微笑む。可憐な少女の如く手を打ち鳴らし、クリスの正解を誉める。

「あなたの妹さん、ずいぶん良くしてくれるみたいね。まるで本当の姉妹のように気を配ってくれるそうよ。屋敷周辺の治安が不安定では子どもができないと訴える公妾の戯言を聞き入れるくらいには」

「そんな……」

 狼狽しては敵の思う壺だ。刹那でも早く王都に戻らなければ。王都が落ちれば、朝国の終わりである。そう思うのに体がうまく動かなかった。毒だけではない脱力が、クリスの体を襲っていた。

 半年前にクロフォード公爵が娶った公妾は、昔から付き合いのあった夕国の貴族の親戚だったはずだ。年頃の娘だったが、夕国の内乱で家が没落し、適齢期を過ぎてしまった。あわや農民、よくても市民に落ちるか、という時に救いを求めた先が公爵家だったと聞いている。

「悪いけど、そんな人間、いくらでもいるわ。夜の国にも夕の国にもね。ま、朝の国の裕福なお嬢様にはわからないでしょうけど。……私たちには、道徳や正義を選ぶ手段さえないのよ」

 自嘲するように鼻で笑うラディアの瞳の奥に、水の波紋のような寂しさが揺らぐ。けれどそんなものもすぐに打ち消して、彼女は胸を張ってクリスとばあやに対面し直した。

「それで? どうする? まだ戦う?」

 ばあやのさっきの言を繰り返すようにラディアが嗤う。ばあやは国になど興味はない。ファロン家に恩義はあろうが、今の主人はクリスだ。クリスがそうしろと命じれば、ここに残りラディアを捕らえるだろう。

 しかし、そんな時すら惜しい。

 顎が震える。手を握り締める。そうしても戦況が変わらないことが分かっているのに、耐え切れずに目を閉じた。少しでも気持ちを整理したかった。もちろん、瞼を持ち上げても見える世界は変わらない。

 起騒孤伏の計。あの日、アトリが閉まる扉の先で言った言葉が、唐突に、遅れて届く。強いものを倒すため、遠くで騒ぎを起こして人を引きつけ、その隙に孤立した敵を倒すという兵法だ。散々学んだ兵法も、言葉だけで身についていない。自分の甘さを呪った。

 睨み上げたラディアは自分の勝利を確信している。それを見ると腹の底から情けなくて、胸や胃がキリキリと痛んだ。俯いて、腹に力を込める。ここで判断できるのは、自分以外誰もいない。

「全軍撤退! 急ぎ王都へ向かいます」

 奥底から声を出すと、自らの鼓膜にビリビリと響いた。その声を聞いてすぐさま、アランはクリスに肩を貸し、起き上がらせてくれる。

「ばあや、急ぎ侯爵と父に事情を。アラン、すみませんが調子が戻るまで馬に同乗させてください」

「承知しました」

「は、はいっ」

 ばあやとアランが急ぎ準備に取り掛かる。クリスはまだ全快ではない体を何とか動かしながら、ラディアに顔を向けた。さすがに彼女一人で立ち向かって来ようとはしない。彼女は単なる陽動役に過ぎないのだ。万が一殺さたとしても、クリスやファロン家の私兵さえ呼び出すことができれば夜国にとって問題はない。弔うことも、されない人だ。

「准将、こちらです!」

 部下の一人の肩を借り、ラディアに背を向ける。足をするようにして遠ざかるも、どうしても後ろ髪を引かれて振り返った。

「ラディア、この屈辱は忘れません!」

 木にもたれかかり、決して背を向けようとはしないラディアに向けて叫ぶ。そんなクリスに対し、ラディアは皮肉気に鼻で笑った。

「あなたの負けず嫌いに付き合うほど、あたしは暇じゃないわ」

「違います。勝手に殺されてくれるなということです」

 この屈辱を忘れない。トラヴィスとジェフを殺したのは自分だ。ラディアを倒さなければ、二人の弔いすらできない。

 ラディアは何も言わなかった。不快そうに目を細め、腕を組んでこちらを見ている。クリスももう何も言わず、部下と共に馬へと向かう。

 夜国との戦いの火蓋は切られた。そして、これが長く続く、クリスとラディアの最初の出会いであった。

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暁が暮れる カタスエ @katasue

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