第2話 西暦2117年4月5日の出来事①
「先生ッ、ホントに早く起きてくださいッ」
「……」
ビルの事務室に響き渡る声に、窓ガラスがわずかに揺れ、男は古びたソファーから体躯を起こすと、未だ頭に残響する声の主へと視線を向けた。
「もう午後ですよ! 時計を見てください、窓を見てください。長針は13時を指していて、太陽はもう西に傾き始めているんですよ」
つんざく喚き声は、一定間隔で頭に響き、呟く声は、雪崩れる罵声の中に溶け込んでいく。
気だるげな面持ちはそのままに、男は寝ぼけた仕草で黒髪をかき上げると、欠伸をかみしめながら、重たい腰を持ち上げる。
そんな、ずぼらな様子に、フロアの入り口に立っていた少女は、辛抱たまらん様子で、入り口のドアを荒々しく後ろ手でたたきつけるように閉ざすと、ズカズカと事務 室内で眠たげに髪を掻きむしり、背中を向ける男の後姿に叫んだ。
「先生!」
「分かっている。午後一番に来客予定だろう……」
「今ビルの入り口に来ているんです!」
「ならちょうどよかった……」
黒く滲んだ、どぶ水のようなコーヒーの残ったマグカップを口につけながら、男は気だるげにそう言うと、カップの中を飲み干した。
その味は、やはりどぶ水のように苦かった。
今日はあと何回これを飲むのだろうか。
そんな不快感に僅かに眉を顰めつつも、男はマグカップをキッチンに置くと、駆け寄ってくる少女を横んに、洗面台で顔を洗う。
「……。ふぁ」
「先生シャキッとしてください、エイラさんに怒られますよ」
「ん……」
少女から突き出されたタオルを顔に押し当て、頬を伝う雫を拭うと、男はまた眠気の滲む眉間をきつく抑えながらそう言った。
少女はというと、その緊張感の欠片もない横顔を見上げては、さらにこわばった顔を紅潮させる。
「せめてもう少し身なりは整えてください。これじゃお客さん帰っちゃいますよ!」
「帰らんよ」
金切り声を上げる少女の顔を覆うように、タオルを放り投げると、男は髪をかき上げ、事務所の窓にかかっていたブラインドカーテンに手を掛けた。
光がわずかに差し込み、男のグレーブルーの瞳が、明るく青みを帯びる。
眩さに目を細めながら、眼下の地上に視線をやりつつ、男はビルの入り口を覗き込もうと、首をかしげる。
いた。
本来なら、10階建てのビルの最上階に位置するこの事務所。
人の目なら見えないほどの小さな人影が見えた。
それも―――――
「……こりゃまた」
「え?」
少女は顔に投げつけられたタオルをソファーの背もたれに引っ掛けながら、怪訝そうな声を男の背中に浴びせた。
男はその声に、肩をすくめながら、ブラインドカーテンを閉じて踵を返す。
「何人連れてきたんだか……」
「先生、見えた限りだと、入り口の女性は一人だけでここに来ましたよ?」
「意味はない。ただ匂うってだけだ」
「?」
「シェイフォン。あのハイエナを呼んできてくれ」
そう言いながらソファーに体をうずめつつ、男は気だるげに、ポケットに忍ばせていた紙巻きたばこを口に咥える。
シュッと火打石の擦れる音が響き、灯がタバコの先端から漏れる。
ライターをポケットにしまい、タバコを咥えたまま、うんざりした様子で天を仰ぐ男に、少女、シェイファンという名の女性はやや眉をひそめながらも、ちいさく頷いては、彼に背中を向けた。
「わ、分かりました。いいんですね呼んできて」
「女だけだぞ」
「い、いませんでしたよその人しか」
「ならよかった」
やや不明瞭な物言いにびくびくするシェイファンの後姿を横目で追いかけながら、男はたばこを咥えたまま、器用に紫煙を口から吐き出す。
バタンと閉じる扉の音。
ブラインドカーテンで閉じられた、やや広めな事務室に、また静寂が広がる。
眠気がまたやってきそうだ。
男は、咥えたタバコを指に摘まむと、物憂げに上を見ながら、天井のシミめがけてピンと爪で弾き上げた。
「苦い……」
火が付いたまま、煙が円を描き、宙を舞う紙巻きたばこ。
やがて勢いよくはじき出されたソレは、天井へとぶつかるはずだった―――――
―――――天井から一気に広がる黒いシミ。
チャプンと音を立て、天井に広がった黒いシミへと吸い込まれるタバコ。
男は、口の中に残った紫煙を吐き出しながら、ソファーから起き上がると、天井に広がるシミを横目に、窓辺に歩き出す。
「慣れないのに無理をするからだ」
低く、部屋に響き渡る、獣の唸り声と共に発せられる言葉。
男のものではなく、彼は、その声に眉を僅かに顰め、広がり続ける天井の漆黒のシミを見上げては、何を言うわけでもなく、壁に取り付けられた開閉ボタンに手を掛けた。
「コウ。お前の周りにはよくも、妙な件が入ってくるな」
「……うちの事務所は元からそういうものを取り扱っているんだよ」
鎖を巻き取る金属音を上げて、上がっていくカーテン。
窓の向こうの昼の明かりが漏れ出し、男は、小さなため息をこぼすと、左手にはめた腕時計を覗き込んだ。
盤面を覆うガラスに僅かに反射して、映る天井。
ポタリ。
滴り落ちる黒い雫。
広がる黒いシミのそこから、何かがニヤリとせせら笑っている様が見え、男はポケットに手を突っ込んだ。
「トウテツ」
「どうしたわが主よ」
「立て続けに起きているこの件。お前はどう思う?」
「さてな」
不気味な笑い声が聞こえるとともに、窓からあふれ出す明かりに、天井のシミがゆっくりと引いていく。
男は苛立ち紛れにクシャリと髪を掻くと、事務室内のソファーに体を沈めた。
その様を、天井の黒いシミは、覗き込んでは、ただただ笑う。
「主よ。外の世界を見よ」
窓の向こうには外の世界が広がっていた。
街中を所狭しと聳え立つビル群。
すぐ目の前には雑居ビルに張り付けられた広告がびっしりと窓を遮り、壁一面に浮き上がっていた。
道路は既にビルとビルの合間を 縫うように、まるで血管のように街の中を走り車両が行き来する。その上空には、最近流通しだした飛行用車両ユニットが空を遮るように航行している。
空に雲はなく、天候操作用の大気圏航行ユニットがまるで、空から人々を監視するように巨大な天幕がごとく街の空を覆っている。
街の中心には、一際巨大なビルの集合体。まるで中心から街全体を見下ろさんばかりに聳え立つ巨大な白のように、13のビルが天高く聳え立っていた。
そこは、第7再開発を終了して20年の時を経た東京都市。
人々の姿よりも、人を詰め込むために建てられた建物と機械の群れで埋め尽くされた、最早機械に支配されたといっても過言ではない町。
西暦2117年4月5日。
そんな街を窓越しに見ながら、青年、コウ・クガミヤは、入り込んでいく光から退くように小さくなっていく黒いシミに囁きかけた。
「いつも通りに、人のいない街が見えるよ」
「嘘はよくない」
「……」
「お前の目は、虚飾を払う。。お前の言葉が事象のすべてを縛る。お前の心は私の心でもある。
お前には、この世界のすべてが見えているはずだ」
「だから背負うんだよ」
「いつも無理ばかりをする」
そう囁くせせら笑いが遠のいていく。
それと共に、事務所の入り口を叩く音がして、クガミヤはソファーに体を沈めて、無造作に足を組んだ。
「シェイフォン入れ」
気だるげに首筋を摩りながら、顔を上げると、コウの目の前には、緊張気味に顔をこわばらせる少女、シェイフォンの後ろから初老の女性が一人、被っていた帽子を取りながら、小さくこちらに挨拶をしてきていた。
皺を深くしながら零れる柔和な笑み。
耳の端にピアッシングされたリングをちらりと覗かせ、喪服のごとく、黒い服を着た女性は、こちらを見ていた。
「こんにちわ、探偵屋さん」
その顔は、口から上が大きなマスクで覆われていた。
その顔の下には、何者の死臭の漂う深い笑みがあった―――――
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