第9話 何も嬉しくなかった

手のひらに当たる、ゴツゴツとした樹皮の感覚が心地よい。短い腕を手頃な枝に伸ばして、反動をつけて体を持ち上げる。足が追いつくともう片方の手でも枝を掴み、体重を預けておく場所を確保する。



小さい頃の夢だ。私は木に登っている。昔は木に登るのが好きだった。 


我ながら木登りは結構得意で、平気でひょいひょいと上まで登っていける。

上まで登ると見える景色が広がって、頬を撫でる風が気持ちいい。



下の方に父が見える。



「おいこら、木に登るなー」


父が注意してくる。


登りすぎたかな?落ちると思ってる?そんなに心配しなくていいのに。



大きく息を吸って、父に声を届ける。


「大丈夫だよ!私木登り得意だし!私これくらいじゃ怪我しな...」


私の言葉を遮る様に、父が口を挟む。


「そんなとこで木に登って、ミア様の気分が害されたらどうするんだ」


その言葉で、私はなんだか馬鹿らしくなる。


「...わかりました。降ります。」


とだけ言って、するすると木を降りた。


小さい頃から、親に怒られると敬語で答えていた。敬語を使っていれば咎められない気がしたし、何よりいつもと違う口調を使っていれば、心の距離を保てる気がした。



そしていつしか、誰に対しても常に敬語を使う様になっていた。



「ロセアちゃん、やんちゃで騒がしかったけど、最近は大人になったわね〜言葉遣いも丁寧になって!」


近所のおばさんと父が話してる。


「ああ、そうなんだが...最近俺にまで敬語使うようになったんだ」


父が困ってる。そうだ。私は親にも敬語を使っている。誰かがそれをおかしいと思っても、みんな父のせいだ。


「あら....!いいのよ!それくらいで!

ミア様に失礼がないように、礼儀正しい人間にならなくっちゃね!」


おばさんは平気な顔でこう言った。


何気ない言葉だが、こうやって夢に見るくらいには、印象に残っている。 


今思えば褒めているつもりだったのかもしれないけど、後ろで聞いていた私は、何も嬉しくなかった。

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