最終話

 私はまたアパートに来ている。

 仕事としてではなく、一人の女性として人間として見つめたかった。

 仕事を早く切り上げてきたとはいえ、もう暗くなってきた。空のオレンジがパープルになっている。ジャケットの隙間から乾いた風が入ってきて、少し寒い。

 沙耶からの証言により、事件はやはり愛から殺人を頼まれて起きたことだとわかった。

 警察も殺人ではなく同意殺人を犯した触法少年として、沙耶は扱われると正式に発表された。ほぼ同時に主に私が取材した内容がサンサンテレビの各ニュース番組で放送された。

 その影響か、門倉愛へのバッシングはあまり生じなかった。現代社会の残酷さの被害者という眼差しで事件を受け止めたのだと思う。

 これで良かったのだろうか、と何度も思う。

 バッシングはされなかったとしても、門倉愛は同情された。彼女にとってそれが望みだったとは思わない。同情されても、自分自身が虚しく思えてくるだけ。ハッピーとは正反対。

 ふと、母のことを思い出した。

 母がパトロンを見つけることを私との時間より優先したのはなぜだったのか。

 愛されたかったからなのか、お金が必要だったからなのか。

 私を拘束しようとしたのはなぜだったのか。

 行き過ぎた愛情か、支配欲か。

 いつか、面と向かって訊けるだろうか。今は、私の中の幼い自分の期待を裏切られそうで怖い。

 母も苦労してきたと思う。シングルマザーで、境遇は門倉愛と似ている。でも、今も図太く生きている。か弱そうな見た目のあの人がいつからそうなったのか、私はその瞬間に気づかなった。

 もし、私のために強くなったのなら、嬉しい気持ちも少しあるけど、申し訳ない思いの方が大きい。彼女を私が変えたのだから。

 視認できないところから、子供の帰りを促す無線が流れる。


「私も帰ろうかな」


 何となく口に出していた。

 アスファルトにヒールがぶつかる音が響く。

 住宅街に小さな公園があった。

 鉄棒しか遊具がなく、あるのは砂ばかりなのに『くじら公園』と書いてあった。見る限りくじらの要素はない。

 公園では、小学校には上がっていないだろう男の子と女の子がサッカーをしていた。微笑ましいな、と思う。

 通り過ぎようとすると、甲高い泣き声がした。

 慌てて見ると、男の子の方が転倒してしまっていた。右膝から血を滲ませて、わんわん泣いている。

 女の子はおどおどして、


「ママっ」


 と、叫んだ。

 死角から眼鏡をかけたショートカットの女性が、さほど焦った様子もなく出てきた。この人が女の子の母親らしい。

 止めた足をまた進めようとしたとき、頭の糸を引っ張る声がした。


「痛くなくなるおまじない、掛けてあげる」


 私も母から言われた言葉。

 おまじないは、お呪いと書く。

 雪川は門倉愛は母親の言葉に呪われていた、と言った。

 でも、門倉愛の母親は呪いではなく、お呪いをかけたつもりだったのかもしれない。

 どうか、幸せになりますように。

 幸せになるために一生この言葉を忘れないように。

 悪意がないなら、どうやったら止められるんだろう。

 わからない。私だって門倉母娘と変わらない。

 泣きたくなった。一粒だけ、もう頬を滑っている。


「あんた、何泣いてんの?」


 顔を上げると、雪川が小さな花束を持って立っていた。


「泣いてません」


 鼻声だった。


「雪川さんこそ、どうしてここにいるんです?」

「ひと段落ついたから、手を合わせに来ただけよ」

「そうですか」


 ほっとしたのだろうか。涙が溢れてしまう。


「泣いても疲れるだけ。さっさと寝なさい」


 彼女はそう言うと、髪を後ろへ靡かせながら私の横を通り過ぎた。

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見えない親子 十野康真 @miroku-hanka

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