第9話

 雪川はまた仮眠室にいた。


「雪川さん、起きてください」


 呼びかけると、今度ははじめからベッドを降りた。ベッドの梯子に背を預けている。


「取材は済んだの?」


 と、彼女は挑発的に首を傾げた。


「ええ、事件の真相がわかりました」

「どうぞ、聞かせて?」


 いがいがする喉を潤すために唾を嚥下してから、私は話し出した。


「門倉親子について取材をしても、家族仲は良く、娘が母親を殺害する動機は見つかりませんでした。私が知ることになったのは、門倉愛の苦労です。

 愛はスーパーで働き、頼れる相手もおらず、女手一つで沙耶を育ててきました。沙耶が中学生になると、パートの稼ぎだけでは足らず、デリバーヘルスで働き始めました。しかし、事件の三日前、スーパーのパートをクビになることを知ります。恐らく、店長からの嫌がらせでしょう。

 彼女は苦労を重ねながらも、それに耐えて人に優しく生きてきたのに、報われることなく理不尽に見舞われた。

 死にたい、と思ってもおかしくありません。

 ただ、門倉愛は自殺していない。証拠は他殺だと指し示しています。

 導き出される結論は――愛が沙耶に自分を殺すよう依頼した。あれはいわゆる嘱託殺人だったんです」


 雪川を見ると、彼女は腕を組み、目を閉じていた。少しして、長いまつ毛を上げた。


「嘱託殺人説には同意するわ。でも、まだ説明し切れていない部分がある」

「そんな……どこが足りないんですか?」

「鬼怒川、あんた、娘への殺人依頼をどう思う? 美談になるとでも?」

「いえ、とても、惨いことだと思います。子供の心に一生消えない傷を残すような――そうか、そうですね」


 そんな酷いことを娘を大切にしていた彼女がする理由がない。


「その説明ができなければ、沙耶がいきなりカッとなって母親を刺殺したというストーリーの方が筋が通る」

「それなら、やはり嘱託殺人ではなかったのでしょうか?」

「いや、嘱託殺人だったんでしょう。ただ、門倉愛にしかわからない理屈がそこにはあった。それは私から説明するわ」


 彼女はどこからかタブレットを取り出し、私に見せた。


「これはいったい?」

「20年近く前の記事よ。一人の女性が刺殺された未解決事件。そして、彼女の一人娘の名前は佐藤さとうあい。門倉愛の旧姓を調べたら、佐藤だった。門倉は死別した旦那の姓をそのまま使っているだけ」

「まさか、その事件も嘱託殺人だったと言うんですか?」

「もはや確認する術がないけれど、ここから呪いが始まったんじゃないかしら?」


 私は絶句してしまった。

 でも、結局のところ、同じ疑問が過去にまで遡っただけじゃないだろうか。娘を死への渇望に巻き込んだ理由がわからない。


「あなたが取材した南川さん。その人が門倉さんの発言で気になったことがあると言っていたじゃない? 人から責められないように生きなさい。私はこの言葉こそが門倉さんを苦しめ続け、過ちを犯させた呪いだと思う」


 呪いと聞いて、オカルトしか思い浮かばなかった。けれど、彼女はそういう話をするつもりはないだろう。

 私は言葉を遮らないように、黙って先を促すように彼女を見つめた。


「彼女は存在しない強盗に罪を着せる計画を思いついた。自分の母親と同じ計画だもの、そこまで難しくなかったんじゃないかしら? どうして、娘を巻き込んだのか。それは、さっきの呪いのせい。娘が自分の首に包丁を刺したとバレなければ、殺人犯として非難されることはない。門倉愛にとっては、何も問題なかったのよ」

「そんな……沙耶さんの気持ちは考えなかったんでしょうか?」

「考えたかもしれないわね。でも、愛は同じ経験をしても生き延びたから」


 自分が大丈夫だったから、大丈夫。

 どうして、親は自分の子供に自分自身を強く重ねてしまうんだろう。所詮、他者であることに変わりないのに。


「死にたいと思ったとき、彼女だって自殺をはじめに思いついたはずよ。でも、そうはできなかった。母親が子供を遺して自殺することは、世間が許してくれない。生きてるときには助けてくれないくせにね。もし、頼れる人がいたら、別の誰かに殺してと頼んだかもしれない」

「人の死は、等しく悲しんでもらえるんじゃないですか?」

「あんただって、聞いたんじゃない? 子供を遺して死ぬのは無念だろう、とかなんとか。そういう奴らに限って、くるくる掌を返すのよ」


 試しに入った洋食屋で聞こえてきた会話を思い出した。

 私も、同じことを思った。


「こんなこと、絶対にあってはいけない」

「そうね、でも、起きたのよ。取材したのはあんた。世間が忘れてもあんただけは絶対に覚えていないといけない。事件が起きた理由も、事件の当事者の名前も全て。それが、記者の責務よ」


 雪川の言葉が重かった。

 彼女が記者という仕事にどれほどの覚悟をしているのか、ようやくわかった気がする。

 彼女は私の頭をがさつに撫でた。


「初仕事にしては、上出来よ。ただ、記者の範疇を越えてる部分もある。殺人と同意殺人との違いは、沙耶さんの今後の人生に大きく関わるわ。警察に報告して、沙耶さんに確認してもらう必要がある。彼女はまだ生きているんだから、誰かに助けてもらうべきよ」

「そうですね」

「警察への連絡は私からやっておくわ。あんたは門倉さんが過ちを犯した経緯を原稿にまとめておいて」


 彼女はそう言い残すと、両手頭上に伸ばして身体を解しながら仮眠室を出ていった。

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