夜1-2

 酔いが深まる夜の十時に、この店は開店の札を垂らす。それと同時にそれを待っていた複数の人が流れ込み、各々好きな席へと陣取って行く。黒く艶やかな皮のソファがあるボックス席が二つに、カウンターが五席。あっという間に店内は残り一席となるまでになると、今度はキッチンカウンターが慌ただしくなる。

「飴ちゃん、チーズの盛り合わせと、生ハムの盛り合わせ。別卓でハニーナッツ」

 カウンターの隅で伝票を滑らせると、飴ちゃんは生き生きとした表情でそれを受け取り、了解!と、狭いキッチンの中を、無駄な動き一切なく小さな身体を駆使して動き回る。

「すみませーん」

 相変わらずな身のこなしに見惚れていると、背後から客の声が飛んで来た。俺は慌ててボックス席にいる中年男性三人組の所へと急いだ。

「ビール二つと、ウィスキーはこれね。それからナッツと干し葡萄のクリームチーズ和え」

 ほどほどに出来上がった彼等は、顔を赤くしながら注文を終えると、俺の復唱なんて気にも止めずに、話を再開して馬鹿笑いを始めてしまう。俺は伝票を手にカウンターの中に入ると、ビールサーバーの前に立ち、二つの良く冷えたグラスをクーラーボックスの中から取り出し、固まった。

 俺は絶望的に、ビールを注ぐのが下手なのだ。

 何度練習しても、真っ白い泡と黄色の液体の黄金比、7:3というのが上手くいかないのである。大体白い泡の層が分厚く、格好がつかない。

 やだなあ……。余り無駄にすると給料から天引きされてしまう。

 俺は冷たいグラスを手に、三回試してダメだったら、心苦しいけれど、飴ちゃんに声を掛けようと決めて、サーバーのレバーを握った。

 本来なら迷惑かけたく無いけれど、運悪く黄金比率外のビールを道志さんに見られて減給されたり、クレームをもらいたくは無い。

「兄ちゃん、変わるよ」

 不意に背後から声をかけられて振り返ると、

「兄ちゃん絶望的に下手くそだから、黄金比できるの一週間かかっちゃうよ」

 さらりと嫌味をこぼしながら、いつの間にか店内へと潜り込んできた弟が、暗い声でぬっと背後から現れた。茶髪の猫っ毛に、覗く白い耳にはピアスがひしめくように並んでいるのが見える。どこのビジュアル系バンドの方ですか? と、我が弟ながら、毎度ながら確認したくなるその容貌に、戸惑いつつ、遅れてじわじわと馬鹿にされた苛立ちが湧いてくる。

「そんな不器用じゃないぞ!」

 そう頭ひとつ大きい彼を見上げて訴えると、暗い眼差しが、ゆっくりと俺を見下ろす。

「はいはい」

 弟は俺の手からグラスをするりと抜き取ると、慣れた手つきでビールをあっという間に二杯、完璧な黄金比率で注ぎ切る。それが終わると、伝票を確認して、注文されていたウィスキーの銘柄を迷うことなく棚から取り出し、水割りを作って。

「はい、早く持ってきな」

 長い前髪から覗く暗い双眸が、同じ鬼の中でも最下層の天邪鬼とは思えない眼光を宿して見えた。

「うっ、悔しいけど器用だな……っ! ありがと!」

「仕事だから……」

 そうぶっきらぼうに呟くと、シンクの中に溜まっている食器を洗い始める。

「あ、ヨルくん、おはよー」

 バックルームから食材を抱えて戻ってきた飴ちゃんが、弟——ヨルを目の前にして、そう声をかけた。ヨルは「はよーございます」と、首を前に出す仕草で、反応を示すと、直ぐに食器洗いへと没頭始める。

「天乃くん、お客さんいいの?」

 そうだ! 俺は急いでフロアに戻ると、一人慌ただしく行ったり来たりを繰り返す。そうこうしていると、

「ねえ、三吉くんいる?」

 と、ドアが開く鐘の音と共に、赤いドレスに体のラインを象った女性客が、真っ赤な口紅の唇でそう低く囁くように声をかけてきた。

 俺はその顔に、慌てて腰を九十度に折り曲げ、深々と頭を下げた。

「おま、お待ちしておりました…!」

 彼女はVIP常連のお客様だったからだ。確か今日の十時半から三吉で指名で予約を入れていたはずだ。

「貴船様……っ」

 彼女は長い睫毛を微かに伏せて、柔らかく微笑んだ。

「お席のご用意ができておりますので、此方にどうぞ……!」

 そう言いながら促し、カウンターへちらりと視線を向けると、ヨルがこくりと頷き、俺の代わりにホールへと出た。

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宵酔い奇譚 中原涼 @nakahara0765

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