宵酔い奇譚
中原涼
第1話 夜1‐1
くつくつと煮える音ともに漂うのは、トマトの甘い酸味と微かなバジル。その香りに胃がきゅっと縮こまる様な空腹に襲われる。すると、それを追い立てるように、今度はじゅわっと音を立てて高音の油が弾けると、香ばしい香りが一気に部屋の中を支配した。
俺はごくりと息を飲んでから、カウンターキッチンを覗き込んだ。調理台に向かい、俺に背中を向けている小柄な彼女——飴ちゃんは油の喝采にかき消されそうな小さなハミングをしながら、菜箸で鉄鍋の中の油を燻らせる。
良い香りだ。もう夜も深いというのに、朝から何も食べてない腹は限界を訴えていた。俺はカウンター越しに「飴ちゃん」と声をかけた。彼女は高い位置で結んだ長い黒髪を靡かせ、振り返ると、俺の顔を見た途端にニヤリと笑った。
「またご飯食べてないんでしょ」
「……恵んで下さい……」
顔の前で両手を合わせると、情けない事この上ないのは百も承知で頭を下げる。彼女はしょうがないなあと言いながら油の中から、仕上がった竜田揚げを一つ二つと、真っ白なペーパーシートに置いた。滲むように油が広がっていく。もうそれすら吸って飲みたい。
「もー、なんでいつもお金ないかなあ……」
「事情があるンすよ、事情が……」
そう言葉を濁しながら答えると、皿に移動した竜田揚げに、たっぷりの赤々としたソースが掛かる。
「はい、味見ね」
「ありがとうございます!」
茶色いスツールに腰を下ろし、白い小皿に盛られたそれを前に手を合わせる。いただきます、と深く頭を下げて、俺は箸で其れを摘み上げて頬張った。熱いのなんて構ってられないほど、迸る肉汁と柔らかなトマトと玉ねぎの甘味に包まれた鶏肉を口一杯に頬張る。うまい。噛む程に柔らかな肉の糸がぷちんぷちんと切れるように、弾力がある。
「おっはよーございまーす」
カラン、と重厚なドアにつけられた、年代物であろう錆びた金色の鐘が鳴る。薄暗く照明の落とされた店内にそぐわない明るい声が響いた。まるで夏を思わせるような声色の彼女は、俺の隣までくると、隣のスツールに腰を下ろした。
「いいなー、飴ちゃんの唐揚げ!」
「竜田揚げね」
すかさずにっこりと飴ちゃんが彼女に笑いかける。長身の彼女は「どっちでも良いじゃない」と飴ちゃんの言葉をあしらいつつ、ウェーブのかかった栗色の艶やかなセミロングの前髪をかき上げた。
「飴ちゃん、あたしも欲しい!」
「もう、お客さんに出す分なくなっちゃうじゃない」
そう憤慨しながらも、揚げたてを俺と同じ量出してくれる飴ちゃんに、彼女は満足そうな笑みをにっこりと浮かべた。
「熱いから気をつけて下さいね、羅刹さん」
飴ちゃんの言葉を右から左に受け流し、羅刹さんは美味しい、と頬を抑えて喜びを表した。ほっぺたが落ちちゃう、そう言わんばかりに眉も目尻も下がっている。
「あ、今日羅刹さん、彼氏とお店同伴じゃ……?」
ふと頭を過り口にすると、彼女はぴたりと動きと口を止めた。あまりにも不自然なその仕草に、思わず「え?」と、飴ちゃんに目配らせると、彼女は唇を一の字に引き結び、微かに首を横に振っていた。——ア、地雷。
「人間の女があ!良いんだって!」
そう言いながら五寸釘を藁人形に打ち付ける勢いで、羅刹さんは箸を竜田揚に突き刺した。皿が衝撃で揺れ、微かにトマトソースが磨いたばかりのカウンターに飛び散る。俺と飴ちゃんは息を詰めて、無言で羅刹さんを見つめた。
「せっかく人間のいい男が食えると思ったのに! 後一歩だったのに! あのクソ女……っ」
絶対に許さない、あの女絶対食ってやる!
そう息を巻きながら、羅刹さんは濃い赤色の口を大きく開けて、竜田揚げを頬張った。まるで血肉を啜る獣のように。
そしてそれと同時に、再びドアの鐘が軽く静かに鳴り響いた。
「はよーっス! ……って、なんか空気澱んでねー?」
能天気な声を響かせてきたのは、従業員の一人だった。金髪が飽きたからと、蛍光ピンクのインナーカラーを入れた黒髪に、白い耳には映える金色のピアスやカフスが輝いている。彼は着慣れているスーツの上着を脱ぎながら、赤い目を輝かせた。
「三吉さん、余計なこと言わないで下さい!」
「えー、仲間外れ? 寂しい!」
そう言いながら俺の隣に来ると、早々に肩に頬を擦り寄せてくる。薄暗がりでも分かるほど蒸気した頬と、吐き出される吐息から香る酒気に、
「三吉さん、まさか……酒飲んでる?」
「おうちで軽ーくロング3本!」
ウィンクをして見せる彼の白い額に力一杯のデコピンを食らわせてやる。
「いった! 酔い覚めちゃうじゃん!」
「仕事前に酒飲まないって約束したでしょうが! 俺が怒られるんですよ!」
「あと三十分で開店だってのに何騒いでんだ、馬鹿ども」
不意に低い声音と苦い煙草の香りが漂い、顔をそちらに向けると、今にも噛みつきそうな犬歯を覗かせながら、キッチンの隣についている扉からゆっくりと男が出てきた。太く長い指先に支えられた煙草の先が煌々と赤く染まっている。
「今日は金曜、一番の稼ぎ時だ。羅刹も三吉もうだうだ言ってねえでさっさと支度しろ!」
太い声にそう急かされると、二人は鬼の顔を見た! とばかりに、椅子から立ち上がると衣裳室へと消えていった。
「三吉のヤツ、もう飲んでんのか」
深い舌打ちに、俺はびくりと心臓を掴まれたような気になる。
「おい、天乃。今日の客はどうなってる」
「は、はい!」
俺はカウンターの隅に置いておいた今日の予定表と、客の明細リストをこの店のオーナーである道志さんへと両手で差し出した。
「本日のVIP予約はともに満席となっています。中でも二十三時からの羅刹さんのお客様が、神功様です」
その名前を聞いたオーナーはピクリと眉を上げた。そして楽しそうに奥歯で煙草を噛みながら、
「上客だ。しっかり取らせろよ」
そう呟くと、飴ちゃんの料理の味見をさっとこなし、すぐまた奥へと引っ込んでしまう。扉が静かにぱたりと閉まると、その瞬間膝から崩れるように緊張感が解け、俺は思わず机にへばりついた。道志さん怖い。格が違う。
ぶるぶるがくがくと震える足をスツールに預けて、生まれたての子鹿のようになっていると、飴ちゃんが「大丈夫?」と柔かに俺の肩を撫でた。
「だ、大丈夫です……!」
優しい言葉に振り返ると、
「ちょっと、天乃ちゃーん、俺のヘアスプレーどこお?」
「天乃ちゃーん、あたしのストッキング電線してるぅ!」
控室と衣裳室から同時に声が飛んでくる。
「い、今行きますぅ〜!」
開店まで二十分も切った。俺は震える膝を叩いて、立ち上がると、彼らの元へと走った。
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