祖父の日

 気づくと、もう午後8時50分だった。そろそろ店を閉める時間だ。

「三郎さん、今日も疲れましたねえ」

 田中さんが、手で腰をさすりながら額の汗をぬぐう。

 彼女の口から出る『疲れた』は、全然嫌な感じがしない。それは、彼女がニコニコしたまま、やりきった表情で朗らかに言うからだ。

「疲れたねえ」

 そんな田中さんにつられて、俺も口角をあげて『疲れた』と言う。閉店まであと10分あるが、もうすっかり終わった気分だ。そんなふうに思ってると、飛び込みの客が来たりするんだが…

 チリン

「お、」

 盛大にフラグとやらを立てて、回収しちまった。扉の開く音に、田中さんと俺はそろって背筋を伸ばす。

「いらっしゃいま、あら、桜火くんじゃない」

 音に反応して扉まで向かっていった田中さんの声が、かしこまった響きからフラットな響きに変わった。

「三郎さん、桜火くんよ」

 田中さんが振り返って、嬉しそうな声を出す。桜火くんは、田中さんのお気に入りだ。

「おー、どうした桜火くん。真弓におつかい頼まれたか?」

「三郎さん、お疲れ様。ううん、三郎さんのこと迎えに来たんだ」

「え、俺を?」

 急なことに少し面食らった。普段、こんな風に桜火くんが俺を迎えに来ることなんてない。

「そりゃまた、急だな」

「たまにはそういう日があってもいいでしょ。うちに招待しますよ」

 そういって桜火くんは少し照れた顔で、いたずらっぽい顔を作って見せた。その顔をよく見ると、左の頬にうっすら小麦粉がついていた。

 思わず、にやけてしまう。こういう抜けてるところ、かわいいんだよなあ。しまらねえぜ。

「そんな、小麦粉つけた顔で言われてもなあ」

「え、嘘、まだついてる?」

 俺が左の頬に手を伸ばすと、桜火くんも反射的に自分の頬に手を伸ばした。頬が赤く染まっている。

「さっき、家出る前に真弓に拭いてもらったんだけど…」

 小麦粉がほっぺについていることには赤面する癖に、真弓に拭いてもらったことは気にならないのか。不思議だぜ。

「あーら!やだ、もう!のろけ?まっぶしいわあ」

 田中さんが、桜火くんの背中を叩く代わりに俺の背中を叩いてくる。気持ちは分かるぜ、田中さん。

「あ、いや、あの、だって、真弓が拭いてくれるから…」

 田中さんの言葉で、自分が少し恥ずかしいことを言ったことに気づいたのだろう。桜火くんがたじろいで、ますます顔を赤くする。

 『お?』と思った。これは、なんだ、あれか。桜火くんも多少は真弓のこと意識してるってことか?

「…っ!三郎さん、早く片付けして帰ろうよ!僕も片付け手伝うから!」

 桜火くんは、そういって俺と田中さんを置いて店の奥へ消えていった。


「じゃあ、田中さんお疲れ様。また明後日もよろしく」

「はーい、任せておいてください。お疲れ様です」

 片付けが終わり、田中さんはいつものニコニコ笑顔で帰っていった。

「田中さんといると、自然と元気が出るよね」

 彼女の背中を見送りながら、桜火くんが言った。

「俺も毎日元気もらってんだ、田中さんには。それ、桜火くんから田中さんに言ってあげたら絶対喜ぶぞ。今度言ってやりな」

「うん」

 俺の言葉に桜火くんは素直にうなづいた。

 つくづく、いい子だなあと思う。俺はあまり『いい子』『悪い子』の2択でものを語りたくないが、そんなちっぽけなプライド捨てたくなるくらい彼は本当にいい子だ。素直な子、と言い換えてもいい。

「俺らも帰ろう」

「そうだね」

 店の鍵を閉めて、帰路につく。

「…で、なんで今日は迎えに来てくれたんだ?」

 しばらく歩いてから切り出してみた。隣を歩く桜火くんが、声に反応して俺の方に顔を向けた。

「うーん、お菓子作りすぎちゃったから三郎さんに食べてもらおうと思って」

 なんとなく、はぐらかされたなあと思う。だって、冷静に考えてみろ。お菓子余ったなら真弓に持たせて帰ればいいだけだろ。わざわざ笑美の家まで俺を連れていく必要はない。何か別の理由があるはずだ。

「そんなにたくさん作ったのか?」

 俺は気づかないふりをして会話を続けた。

「うん、お母さんが張り切っちゃって」

 目を細めて桜火くんが笑った。

 『仕方ない人でしょ』と少し呆れたような表情の核に、笑美に対する優しさと愛おしさを感じる。

「三郎さん、私ね、子供を2人引き取ろうと思うの」

 桜火くんの表情を見て、10年近く前の笑美の姿がふと思い出される。

 2人を引き取ることを決心したすがすがしさの中に、不安や葛藤みたいなものを感じたあの日。

「そうか。笑美なら大丈夫だ」

 隠し切れていないそれらの感情にはあえて触れずに、全力で背中を押した。

 いつかの選択が、正しかったのか間違っていたのか。いくつになってもそんな悩みは尽きない。

 だけど、ふとした瞬間に『あ、これでよかったのだ』と自分の選択が肯定される時がある。

 桜火くんの今の表情は、あの日の不安げな笑美と、背中を押した俺を優しく肯定してくれる温かい顔をしていた。

「…ねえ、三郎さん。真弓って好きな人いるのかなあ」

「へ、え、あ、うん!?何、なんて言った、今!」

 ぼんやり過去に意識を飛ばしていると、目の前に爆弾を落とされた。急に現実に引き戻されたことと、その内容に思いっきり動揺する。

 え、もしかしてこのことが聞きたくて俺を迎えに来たとかあるか?俺、真弓に隠しておく自信ないぞ。いや、待て、真弓はかわいいから『北条さんって好きな人いるか聞いてきてよ』ってクラスメイトに頼まれた可能性もあるよな。あ、でもだったら俺に聞かずに真弓に直接聞くよな⁉ていうか、真弓の好きな人って…

「お…好きな人?俺も知らねえなあ」

 あっぶねえ。動揺して、真弓の好きな人の名前口走っちまうところだったぜ。

「…そうか。三郎さんでも分からないのか」

 桜火くんは、俺の動揺には気づいていないようだ。案外簡単に食い下がった。

 この質問が、桜火くんが真弓を好きなことの確証にはならないことはわかっている。だけど、奥手な彼がどんな理由であったにしてもこの質問をしてくれたことが嬉しい。俺に、してくれたことが嬉しい。好きな確証ではなくても、気にかけていることの証拠にはなる。真弓、よかったな。

「ちょっと遅くなっちゃったね。お母さんたち待ちくたびれてるよ」

 笑美の家に着いた。桜火くんがポケットから鍵を出す。

「ただいまー!」

 桜火くんが、やけに大きな声で言った。

「お兄ちゃんおかえりー!」

「おかえりー!」

「待ってたわよー!」

 奥から、かしましい声が聞こえた。

 全く、もう夜の10時だってのに元気な奴らだ。この家は他の家から離れているので、大きな声を出しても問題ない。

「元気だなあ、おい…」

 パアーンッ

「ん!?」

 やや呆れながら扉を開けると、思ってもみない音が耳をつんざいた。

「サプラーイズ!」

「…」

 音にびっくりして思わずつむってしまった目を開けると、笑美、十花、風花、真弓がクラッカーを片手にニヤニヤしていた。

「…今日、何の日?」

 思考停止中の頭で必死に言葉を紡いだ。

「祖父の日」

 真弓が即答した。はて、そんな日があっただろうか。

「そんな日あったか?」

「今日決めた」

「そうか」

 なら、俺が知らなくても仕方ないか。

「…って納得すると思うか?俺ももう年なんだぞ!クラッカーの音で心臓止まったらどうするんだ!」

「きゃー!おじいちゃんが怒ったー!ハハ!」

 真弓の肩を両手でつかんで前後に揺さぶると、真弓が楽しそうな声を出した。

「桜火くん、説明してもらおうか!」

 真弓の肩をつかんだまま、桜火くんの方をクッと見た。

「いや、僕もね、クラッカーの音で心臓止まっちゃったらどうしようと思って止めたんだよ。三郎さん年だし」

「おい、桜火くん失礼じゃないか」

「いや、三郎さんさっき自分で年だって言ってたじゃん」

 風花が話に入ってきた。いいツッコミだ。

「風花、ナイスツッコミー」

 十花が手を叩いた。

「今日、お姉ちゃんと真弓と一緒に学校でご飯食べてた時に『あ、今日父の日だね』って話になって」

 その2人の様子を見ながら、桜火くんが続けた。

「おう」

「真弓が、父の日はあるのに祖父の日はなくない?って言いだしたから、今日を祖父の日にしようと思ってお菓子作ったんだよね」

「…」

 声が出なかった。

「わ、三郎さんもしかして感動してる?嬉しくて声でなくなってる?」

 笑美が嬉しそうに俺に近づいてきた。

 そんな笑美を手で制止して、俺は一言。

「…君たち、敬老の日って知らないのか?」

「あ」

「え」

「あー!」

「敬老ー!」

 …まったくもう、なんで5人もいて誰も気づかないんだよ。

「しょうがねえやつらだなあ」

 口ではそんなことを言いつつも、机の上にろうそくをさして置いてあるチーズケーキを見つけて、頬が緩む。俺の好み分かってるじゃねえか。

 俺、この5人の中の1人の祖父でしかないんだけどなあ。他4人とは血のつながりもないし。笑美に至っては祖父じゃなくて、父だろ。でも、

「嬉しいなあ」

 この5人に『祖父』だと言ってもらえることが嬉しい。俺の為に考えてチーズケーキを作ってくれたことが嬉しい。

「サプライズ成功?」

 桜火くんと笑美が一緒に俺の顔を覗きこんできた。

「大成功だ」

 2人の頭を思いっきり撫でる。2人は嬉しそうに目を細めて、机へ向かっていった。それについて行って、みんなで机を囲む。

「ああ、こりゃたまらんなあ」

 孫たちがかわいくて、たまらない。

 夜遅くに食べるチーズケーキがおいしくて、たまらない。

 今が幸せすぎて、たまらなかった。




三郎さん編終わり




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 ご無沙汰しております。雪子です。三郎さん編、短めでしたがここで終わりです。前回からだいぶ間が空いてしまいました。ごめんなさい。

 これをもちまして『今日も明日もくもり空』完結いたします。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

 今後は、雨月視点の別のお話や、まったく違うお話を書いていくつもりです。そちらも読んでいただけるととっても嬉しいです。連載始めたら、近況ノートでご報告いたします。

 また、お会いできれば嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします!

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今日も明日もくもり空 雪子 @1407

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