第2話 ライオン

 例えば、檻の中に二頭のハイエナがいたとする。

 オスの〝ハイ〟とメスの〝エナ〟が展示中なのだと、檻の前には写真付きで紹介が貼り出されている。

 その写真と見比べて、檻の中のハイエナのどちらが〝ハイ〟で、どちらが〝エナ〟か。見分けられる人間はどれくらいいるだろう。


 ライオン、シマウマ、キリン、ゾウ……みんな、同じ。

 どんな動物も興味を持って観察しなければ個体の識別は難しい。


 人間もそうだ。興味がなければ個体を識別することは難しい。

 そして、どうやら俺は――人間を含めたあらゆるものへの興味が薄いらしい。


 例えば、


「このあいだ、いっしょに飲みに行ったよね!」


 なんて声を掛けられたとする。

 飲みに行ったことは覚えていても、いっしょに行ったメンバーの顔は覚えていない。

 だから、目の前にいる人物がいっしょに飲んだ相手なのか、わからない。覚えていない。


 興味が、ない。


 それでも二十数年間の人生で困ることがなかったのは、そこそこ整っていて優し気に見えるらしい顔立ちのおかげだ。

 黙って微笑んでいれば相手はテキトーに解釈してくれる。


 そんな感じだから、真琴と初めて会ったときのことは覚えていない。


 真琴を認識したのは、真琴が通う専門学校の女の子たちと俺が通う大学の男連中とで動物園に行ったとき。

 課題で動物のイラストを描かなくちゃいけないから……と、いうのにかこつけて十数人で動物園に行ったとき。


 ハイエナの檻の前から動かなくなった真琴の手元をのぞき込んだ、そのときだった。


「こんなに色んな顔のハイエナを思い付けるなんてすごいね」


 真琴がスケッチブックに次々と描いていくハイエナはどれも個性があった。

 キリッと格好いいハイエナ、おどけた表情のハイエナ、色っぽいハイエナ……。

 写実的な絵でもデフォルメされた絵でも、この絵とこの絵は同じ個体、この絵とこの絵は同じ個体と見分けられた。


 人間にも動物にも、誰かが描く絵にも全く興味のない俺が見ても区別が付くくらい強い個性があった。

 俺はその個性を、真琴が想像して描いたものだと思っていた。


 でも――。


「違いますよ」


 真琴はあっさりと首を横に振った。


「あの子たちそれぞれの顔をそのまま描いてるだけです。あの子たちそれぞれに個性があるんです。……ほら、見てください。全然、顔つきが違うじゃないですか」


 そう言って真琴は檻の中にいるハイエナを次々に指さした。

 耳の形がどうとか、目の垂れ具合がどうとか、鼻筋の毛色がどうとか言ったあと。さらに隣の敷地にいるライオンについてまで説明し始めた。


 どんな動物も人間も、興味を持って観察しなければ個体の識別は難しい。


 俺には全く同じにしか見えないハイエナやライオンを識別して、描き分けることのできる真琴は、ハイエナやライオンに強い興味を持っているのかもしれない。

 いや、ハイエナやライオンだけじゃない。


 この世界のあらゆるものに強い興味を持っているのかもしれない。


「ね! 全然、違うでしょ?」


 俺のことなんて見もしないで、ハイエナやライオンの個体差について話したあと。ようやく俺の方に顔を向けて、にひっと歯を見せて笑ったとき。

 俺は真琴の顔を認識した。


 銀縁のメガネを掛けて、髪はショートカット。

 低い鼻。そばかすだらけの真琴の顔を、俺は――認識してしまった。


 ***


「今日の夕飯はオムライスです! 何をお描きしましょうか?」


 そう言って振り返った真琴はあの日と同じように、にひっと歯を見せて笑っていた。


「じゃあ……このお道化たハイエナで」

「ハイ兄さんだね、任せて!」

「ハイエナの……ハイ?」


 安直だな……と、くすくすと笑うと、キッチンに向かう真琴もつられて笑った。


 誰からも、どこの企業からも反応がなかったことに落ち込んでいたけど、もう立ち直ったようだ。

 ほっと息をついて脱衣所に向かった。


 真琴が専門学校に通っていた頃――。

 まわりのみんながそうしているからと真琴もSNSで自作のイラストを公開し始めた。

 卒業が見え始めた頃には営業用のメールアドレスやチャットツールも使い始めた。


 でも、真琴はそういうのが性格的に合わなかったらしい。

 俺といっしょにいてもスマホをいじってばかりいるようになった。


 そんな真琴に、


「同棲しよう。同棲して、会社に行く前の五分間と帰ってきた後の五分間だけ見るようにしよう」


 と、言ったのは半年前のこと。


 SNSも、メールも、チャットツールも。

 俺のスマホからだけ見れるようにして、会社に行く前の五分間と帰ってきた後の五分間だけスマホを貸すようにした。


 それでようやく漠然とした不安から解放された。

 真琴も、俺も――。


 スーツを脱ぎながらスマホを取り出した。


 SNSのアカウントに鍵を掛けて非公開の状態に変更する。

 真琴に見せるときだけアカウントの鍵を外して公開状態にしているのだ。繋がっているアカウントも公式アカウントやBot、とっくに使われなくなっているアカウントだ。


 そんな状態なのだから、当然、反応もなければDMも届かない。

 それでもたまにイラストを描いてほしいと依頼してくるやつがいるけど、DMのメッセージを削除して、ブロックして、おしまい。


 メールもチャットツールも同じだ。

 朝は脱衣所で、夜は玄関のドアを開ける前に確認をする。

 メッセージが届いていたら削除して、対象のメールアドレスは迷惑メールとして設定する。チャットツールの場合は対象のIDをブロック。


 サンプルイラストを送り付けて来ておいて、返信しても反応なし。仕事を依頼しようとしても音信不通。

 相手から見た真琴の印象は最悪なはずだ。


 真琴が大好きなハイエナのように勘違いされて、悪者扱いされてるかもしれない。

 でも、真琴の耳に入ることはないのだから何の問題もない。


 会社に行く前の五分間と帰ってきた後の五分間――。

 この時間さえ乗り切れば、俺と真琴の平穏は守られる。


 スーツから部屋着に着替え、スマホを手にリビングに戻る。

 テーブルの上にはすでにオムライスが用意されていた。デフォルメされたハイエナのイラストがケチャップで器用に描かれている。


「……上手いなぁ」

「一応、プロ目指してますから」


 お道化て胸を張る真琴を見つめて、俺は黙って微笑んだ。


「冷めないうちに先に食べてね、礼央」

「ありがとう。……でも、その前に」


 真琴が俺のためだけに描いてくれたイラストだ。写真に撮って残しておかないと。

 スマホを構えて、カメラを起動させようとして――顔をしかめた。


 うっかりチャットツールのアイコンを押してしまったからだ。

 最悪なことにメッセージが届いていた。


 ――先日、メッセージを送ったのですが届いているでしょうか?

 ――サンプルでいただいたイラストを元にキャラクターのデザインをお願いしたく、まずは直接会って打ち合わせをさせていただければと……。


 書き出しを読んだだけで胸糞が悪くなる。


 真琴が描くイラストは真琴の一部だ。例え、一部だって俺以外の目に触れさせたくないと思っている。

 それなのに、真琴自身と会いたいだなんて……そんなこと、許せるわけがない。


 俺のことなんて見もしないで、目をキラキラさせながらハイエナやライオンの個体差について話していた真琴を思い出した。


 あらゆるものに強い興味を持つ真琴が外の世界に出て行ったら、一体、どうなるか。

 簡単に予想がつく。


 目を輝かせ、次々に色んなものに興味を持って、あっという間に俺の前からいなくなってしまう。


「それって……ズルいよね」


 俺が興味を持ったのは――個体を識別できるほど興味を持ったのは真琴だけなのに。

 真琴は俺以外のものにも興味を持って、俺を置いて行く。


「どうしたの? 冷めちゃうよ?」


 自分の分のオムライスを作り終えて、真琴がテーブルにやってきた。

 俺のことをじっと見つめて、きょとんと首を傾げる真琴に、俺はにこりと微笑み返した。


 外の世界に出たら、きっと真琴は俺を置いて行く。


 なら、外の世界へと続く扉は閉ざしておかなければならない。

 檻の中に閉じ込めておかなければならない。


 動物園に展示されているハイエナのように――。


「ううん、なんでもないよ」


 俺は微笑み返して、テーブルの下でスマホを操作した。

 メッセージを――外の世界へと続く扉を削除するために――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハイエナとライオン 夕藤さわな @sawana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ