第7話

 ケイジが生涯、最初の短歌を公表しなかったことには理由があった。


 それは、短歌連作に潜ませた「いつかぜんぶで笑い合えるよ」というフレーズ。


 ケイジの中で笑い合うことは、許すことだった。だからこの歌には「とうの昔にぜんぶ許しているんだよ」というメッセージがあった。


 それをトウコさんに気付かれたくなかった。


 公表すれば評論家がこの連作に解釈をつけてくれるかもしれない。

 評論家の中にはケイジの潜ませたメッセージを、正確にキャッチする人がいるかもしれない。

 それがトウコさんの目に留まるかもしれない。


 そうなっては困るのだ。


 だって許されたと知ったら、トウコさんは「ケイジの祖父と同じ境地を味わえた」と満足して、生きることをやめてしまうかもしれないのだ。


 その強迫観念が頭を擡げる度、あの菜の花畑の淡い黄に彼女の影が飲み込まれて消えてしまう嫌な想像を何度もした。


 だから、ケイジは懸命にそのメッセージを隠した。


 ケイジが許していることに気付かなければ、ケイジと笑い合う「いつか」を切実に夢見ている間ならば、トウコさんの中にそんな悟りは訪れないだろう。


 トウコさんは最期まで約束された「いつか」を穏やかに待ち続け、ケイジはとうにその「いつか」はここに在ることを気付かせまいと細心の注意を払った。




 いつかぜんぶで笑い合えるよ


 ――とっくにぜんぶ許しているよ




 ケイジとトウコさんは、いつも小さな発見に笑い合って、互いにそれを許し合って日々を過ごした。




 ――――正午だ。菜の花畑から運ばれたそよ風に混じって、ぽこん、ぽこん、とスリッパを叩くリズミカルな音が聞こえる。


 創作の時間。

 誰かの心を満たす短歌が、俳句が、詩が、小説が、その他あらゆるものが今も刻一刻と生まれ続けている。





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