第6話

 時計は午前四時を指す。

 僅かに朝の気配が滲み始めていた。


 目の前の彼がもうとっくに死んでいるなんて未だに信じられない。信じたくない。


 彼が私を見て泣きそうになった意味をここにきて理解する。


 死んだのが私だったら彼は決してそんな顔を見せなかった。

 最初から最後まで冗談を言い、楽しそうに私をからかっただろう。


 死にゆく私が一欠片の心配も未練も残さなくて済むように。


 でも死んだのは彼だった。


 私を残していくのが不安でたまらなくて、私を傍で助けられなくなることが辛くて泣きそうだったのだ。


 彼はそういう人だ。


「あーあ! 私、後追い自殺しよっかなぁ!」


 不謹慎なことを叫んだ私に彼がぎょっと目を剝く。


「バカッ。何言って……!」


「私、瀬央せな教信者だった自分を殺してしまおうと思うの」


「……………どういう意味なの?」


 彼が思いっ切り怪訝な顔をする。


「そうだ。崖から落ちた時、頭打ったよな確か。病院行った方がよかったんじゃ。脳みそからバカになってない?」


「ええい、うるさい」


 彼の失礼な物言いを押し止める。

 少しふざけすぎた私も悪いけど。


「絵を描けないって瀬央みたいになれないってずっと思い込んでた自分を捨てようって意味だよ」


「……俺がいなくても、手伝わなくてもいいってこと……?」


 嫌な訊き方をするなあ、と返すことも出来たけど、言い方に構う余裕もないくらい彼は真剣な表情をしていた。


「もう十分、私は瀬央に助けられた。だから瀬央がいなくても絵を描ける」


 彼はふうと長い溜息をついた。

 その瞬間、肩の荷が下りたように柔らかな気配を纏っていた。




 それから私と彼はアトリエの簡単な掃除をして、生きていた頃と何も変わらない下らないお喋りをして、完成させたコンクール用の油絵の処遇について話し合った。


 一時間なんてあっという間だった。


 最後の刹那、私の肩を抱いていた彼のペンだこのある右手がふっと重みをなくしたような気がして……。




 気が付くと私はうとうとと舟を漕いでいた。


 はっと見回すと完成している油絵が目の前に。


 彼は最初からいなかったかのように消えていた。


 開け放ったままにしていた窓から朝の光が満ちてくる。静寂。


 部屋中が少し歪んだ。私が一度失敗した油絵の背景の壁みたいに。


 違う。視界が揺れたんだ。


 彼が亡くなってからようやく私は涙を流した。

 頬を伝った滴は熱く、彼のいない現実を緩やかに私に浸み込ませた。




 コンクールには元宮もとみや瀬央せな久遠くおん奏叶かなとの共同作品ということで出展させてもらった。

『孤独』は高く評価され、彼の代わりに私が賞を受け取った。


 中には「人物を二人描くのは『孤独』というテーマにそぐわないのではないか」と批判する人もいた。

 そう言う人は大抵パンフレットのちっちゃな写真だけを見て物申していた。


 実際に彼の、いや私達の作品を目の前にすると息を呑み、見入っていた。


 コンクールの作品には絵の下に制作者が各自コメントを載せる。

 その作品で何を伝えたかったのかを書くのだ。


 地球環境がどうとかかなり壮大な長文が並ぶ中、『孤独』のコメント欄にはたった一言だけ。


『触れていた手がどれほど温かいか知っているから孤独はここに存在し得る』


 いつの間に書いたの、そんなコメント。ちょっとカッコつけ過ぎじゃない? 


 まったくもう、瀬央らしい……。




 私は絵を描き始めた。

 彼のアトリエを借りて、描くのが苦しくなった時は『孤独』を眺める。


 彼の横顔に不意に息遣いを感じ、我に返っては勇気づけられる。


 就職活動と両立させながら絵に没頭する時間を作るのはなかなか大変だが楽しくもあった。


 彼の後を追っているだけ? 

 知ったことか、私は自殺に成功しないといけないんだ。


 現実を見るという当たり障りのない言葉に逃げて絵を諦めた自分を捨てる。


 きっとそれは、それこそ孤独だ。

 これまでは周囲に合わせて流れに沿って空気を読んで、ぬるく触れ合っていれば良かったのだから。


 馴れ合いの温度を放り出し、彼を失ったことを受け入れて、私は私のしたいように絵を描いている。




<完>





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