母は囲碁です
葛
囲碁
世間ではよくあることですが、私の母は囲碁です。
碁盤が本体か、碁石が本体かは私にもよく解りません。
勿論、以前は人間でした。
今からその話をしようと思います。
母は私がまだ小学生の頃に蒸発しました。
ふらりとどこかに出掛けてそれきり帰って来なかったのです。
母は弟を生んだばかりでした。
母がいなくなって数日経ったある日、母の声で小言を言われて、見回しても母の姿はありません。
そんなことが何度か続き、ようやく囲碁が母なのだと気が付きました。
父には母の声は聞こえていないようです。
父は母が囲碁になってから、仕事をしながら家事をして小言一つ言わずに私と弟を養ってくれました。
それだけ聞くと感動話ですが、父の代わりに囲碁が口やかましく小言を言ってくるのでプラマイゼロです。
「ちょっとアカリ、もっとちゃんとコウタのお尻を拭いてあげなきゃダメじゃないの」
弟のおむつを替えようとしているところに飛んでくる小言。
母がじれったそうにパチンと碁石を鳴らし、部屋の隅から声を掛けてくる。
「わかってるよ! 今やろうとしてたの!」
不機嫌な私は母に怒鳴り返し、多少乱暴な手つきで弟を着替えさせた。
場の空気を敏感に感じ取った弟が泣き出しそうに顔をしかめたので、慌てて「ごめんね、コウタ」とあやしにかかる。
そこで「ただいま」と父が顔を覘かせる。
「お、アカリ、コウタのおむつを替えてくれたのか。えらいな」
父がぽんと私の頭にゴツゴツした手を載せた。
お母さんがいなくなっても大丈夫だよな、とその手が伝えていた。
私はむしろ母にあれこれ指示されながらやっただけなので、何も言えず口をつぐんだ。
そんな日々が続いて私は中学生になっていた。
ますます母の干渉が鬱陶しくなってくる年頃だ。
母は自分で自分の体を動かせないので、私が母の言うとおりに囲碁を移動させていたが、母と喧嘩したりすると時々母の叱る声を無視してその場に放置した。
一度だけ「なんでお母さんは囲碁になったの?」と尋ねてみたが、「さあ、そんなことお母さんに分かるわけないじゃないの」とさも当然のように返された。
私は呆れて、以来その質問をすることがバカらしくなった。
ある日。
「ねえ、アカリちゃんのお母さんって行方不明なの?」
クラスメイトの女子に好奇心一杯に訊かれた。
「ちょっとやめなよ」と隣の女子がことさら私を気にかけるように止める。
「え、もう死んじゃってんじゃねえの、アカリの母親って」
通り掛かった男子が口を挟んだ。
「え! そうなの! どういうこと?」
好奇心旺盛な女子が身を乗り出す。
「いや、二年くらい前の近所の噂でさ、アカリの母親がふらふらって飛び出して、交通事故で……」
そんな話は初耳だった。
「やめなって!」
意気揚々と喋る男子を遮って、隣の女子が悲痛な声で立ち上がる。
「アカリちゃん、顔真っ青だよ……」
「私の……」
と口を開き、声が少し震えてしまったので言い直す。
俯いていた顔を上げ、
「私のお母さんは、囲碁だよ」
三人の注目が私に集まる。何を言っているんだという表情。
私は気にかけず教室を出た。
家に着いて真っ先に囲碁のところに行った。
「ねえ、お母さん」
返事がない。
「ねえ」
反応がない。
「ねえ! お母さんってば!」
ドクドクと不快に心臓が高鳴り出した時。
「ふわぁ」
と囲碁が欠伸した。
「なあに? 騒がしいわね」
「お母さん、何で返事しないの」
「ああ、ごめんね。ちょっと寝てた」
ああ、囲碁って眠るのかあ。そうかあ。
私は気が抜けてぺたんと座り込んだ。
「どうかしたの、アカリ。顔色悪いわね」
「お母さん、訊きたいことがあるんだけど」
私の真剣なトーンの声を聞いて、囲碁が少し緊張しているのが分かった。
「お母さんは、もう死んじゃってるの?」
ほんの束の間の静寂。
やがて、ふふと母が切なそうに笑った。
「実はお母さんにもあんまりよく分からないの」
母の声にはぐらかそうという意図は読み取れない。
「そうなんだ……」
私は落胆したような、安心したような。
「ね、アカリ。囲碁は好き?」
何の脈絡もなく母が訊いてきた。
「お母さんはね、アカリくらいの頃はあんまり好きじゃなかったの」
たあいないいたずらを打ち明けるように照れくさそうな様子の囲碁。
私は不意に母がまだ人間で、弟のコウタも生まれていなかった昔の記憶を蘇らせていた。
幼い私が碁石を手遊びで握ったり落としたりしていると、母が覘き込んできた。
「囲碁、やってみたい?」
そう訊かれた私は無邪気に「うん!」と頷いた。
その時に教わったルールなどは微塵も覚えていない。
母は私が次の手に迷うと「ここに置いてみたら」とアドバイスするので結局、自分で自分を追い込んで負けた。
「アカリは強いわねえ」
実際は母がほとんど打ったのだが、私は嬉しくてたまらなかった。
昼間のけだるい陽気が庭先から入り込み、私と母の背中をぬくぬくとくすぐっていた、そんないつかの光景。
「お母さんね、おじいちゃんがいっつも囲碁をやってる姿見て、心の中ではバカにしてたの。じじくさいとか何とか反抗して。でも、大人になってやり始めると結局、懐かしくてね。血は争えないわねえ」
囲碁がしみじみと溜息を漏らす。
「アカリはお母さんが中学生の時よりずっと大人よ。何だかんだで家事も覚えて、コウタのこともちゃんと面倒見てくれる。お父さんのこともお母さんの代わりに労ってくれる。勉強も宿題もちゃあんとする。
お母さんには勿体ないくらい出来のいい娘ですよ、まったく」
「お、お母さん、どうしたの急に」
「だからね、アカリ。これからはお父さんとコウタのことお願いね」
……母はこの一言を言うために、ただそれだけのために何年も囲碁になり、私たちを見守っていたのだと唐突に知った。
「うん。分かったよ」
私は微笑み、ゆっくりと頷いた。
「ただいまー」と父が弟を幼稚園から連れて帰ってきた。
弟が帽子を脱ぐのもそこそこに「おねえちゃーん」と私の背中にぺたんと抱きついてくる。まだまだ甘えたい盛りなのだ。
「お父さん……」
二年前、母の葬式での光景を今ぼんやり思い出し掛けている。
母の葬式を終えた直後に私は母が亡くなったことをすっかり忘れてしまった。
父はもう何年も、母の死を受け入れられない私と幼すぎた弟に、母が死んだ事実を隠していたのかもしれない。
私と弟を傷つけないために。
「何だい、アカリ」
呼び掛けて何も話し出さない私を父が不思議そうに眺める。
「あのさ、囲碁のルールってわかる? 教えてほしいんだけど」
この時に父がぽかんと口を開けて驚き、それから嬉しそうにくしゃりと笑ったことを、私は今でもはっきりと思い出せます。
それからは囲碁が母の声で話し出すことは二度とありませんでした。
それでも私の母はかつて囲碁でした。
まあ、世間ではよくある話なのですけどね。
母は囲碁です 葛 @kazura1441
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