薫陸香

深川夏眠

薫陸香(くんのこ)


 妻が体調不良を訴え、検査のために入院するという。今一つ具合がよろしくないことも、病院の名も、直前まで知らされていなかった。いや、最初に告げられたときに聞きそびれたのかもしれない。忙しかったし、疲れていたから、大概の話は軽く受け流していたと認めよう。

 妻はオレンジとベージュの中間くらいの色の着物に濃い紫の帯を締めていた。

「相変わらず情緒が薄い」

 これはボキャブラリーの貧困さを揶揄する彼女なりの言い回しだ。

「枇杷色と桑の実色のちりめん

「なるほど、季節だね」

 だが、夫の語彙にケチをつける妻は表情の変化に乏しい。お互い様だ。草履を履いてスッと立ち、あたかもそこが痛むと強調するかのようにみぞおちに手を当て――口に入れたら甘そうな黄色い指環がトロンと鈍く光った――改まった調子で、

「状況が悪ければ、そのまま留め置かれます。場合によっては手術の可能性も」

「ああ」

「だからといって、差し入れだの立ち会いだの、お骨折りの必要はありません」

「連絡は入れてもらわなくちゃ困るよ」

「そうでしょうね。洗濯機の使い方にもゴミの分別にも不案内でいらっしゃるから」

 嫌味な敬語遣いで夫の家事能力不足をくさす。不機嫌さをアピールするときの常套手段だ。ただ、いつもより一層めた、人知れず感情を風雨に晒して一切合切洗い流したとでもいった風な、目の前にいるにもかかわらず妙な距離感を覚えさせる佇まいが気にかかった。

 もう少し何か聞き出した方がいいかもしれない……と思った瞬間、外で軽くクラクションが鳴った。

「迎えが来たので、ごきげんよう」

 会釈し、籐のトランクと日傘を提げて出ていく間際、

には、お気をつけあそばして」

「は?」

 問いただす暇はなかった。匂い袋のせいか、扉の閉まった玄関に甘く粉っぽい香りが残った。


 小さな家でも一人でいると不思議に端から端までが遠くなる。

 冷凍庫には惣菜のストックがきちんと仕分けされて詰まっていて、当座は困らないが、先々どうするか、また、ヘアトニックやアフターシェーブローションの買い置きはあったろうか……等々、些末な事柄が引っ掛かって仕事が手につかない。

 先ほどの謎の単語を調べてみた。最初は見当違いな気がする情報の羅列だったが、しばらくすると靄が晴れてきた。

 薫陸くんろく、すなわち樹脂の一種が固まって石化したもの、あるいは地中で化石となったもの。後者は琥珀に似、香料として用いられる。日本では岩手県久慈市に産するが、同地では方言で琥珀をくんと呼ぶ――。

 一応、納得したが、とはどういう意味だろう。

 妻がブレンドしたハーブの入浴剤を入れてバスタブに身を沈め、ウトウトしながら、おかしな夢にうなされた。

 帯留めの琥珀の中を動き回る黒点。虫だ。最初は羽蟻だったが、楕円の鼈甲飴めいた固体の内部をうろつき回り、一旦フレームアウトして、また戻ってきたと見るやカマキリになっていた。繰り返すごとに種類が変わり、とうとう昆虫ではなくなった。トカゲ、ネズミ……ウサギ……。

 危うく鼻から湯を吸いかけて飛び上がった。のぼせそうになっていた。ベランダで自然の風に当たって涼むつもりだったが、生ぬるくて不快感が募った。諦めて引っ込もうとしたとき、窓に貼り付いた虫が視界に入った。我ながら馬鹿げた想念だと思いつつ、妻の言うから抜け出して羽を伸ばした一匹ではないかと考えた。もしや、彼女が所有する琥珀製品の中から、止まっていた長い時間の呪縛を逃れて息を吹き返した連中が跋扈し始めたのでは……と。

 蠅、蚊、虻、蜂……。家中を燻蒸しても飽き足らず、殺虫剤の缶を握って狂奔した。自分が呼吸困難に陥って苦しむのはわかり切っていたが、タオルで顔半分を覆って駆け回った。目に鋭い痛み。ねっとりした涙が溢れて顎まで伝った。

 外に飛び出し、見上げると、愚行を嘲笑うように、黄色い満月の中でせんじょが跳ねていた。あれはじょうか、我が妻か。そうだ、彼女は独善的で冷淡な夫に愛想を尽かして月へ帰ってしまったのだ――というところまでが、ぬるま湯にかって見た悪夢だった。

 笑止千万とは言いながら、素っ気なさが却って不気味な妻のこうふんが耳に蘇り、居ても立っても居られずウロウロ歩き回った。この家のどこかにあるが妻の不満という湿気を含んで膨らみ、はち切れんばかりに張り詰めて、不穏な輝きを放つ様が脳裏に閃いた。

……」

 月光に照らされた仄明るい屋内を、初めて泊まった勝手のわからぬ旅宿でもあるかのように心細い想いで、キョロキョロしながら行ったり来たりした。

 不意に柱に映った影が巨大な蛾に見えて悲鳴を呑み込んだ。すると、その形がうねり、回転して広がって、すみながしよろしく揺らめいたと見るや、ダリの長い題名の絵の猛虎にそっくりなシルエットに変化した。襲われる、噛み殺される……。

 恐怖に足が竦むと同時に思い出した。アンバーを表す漢字の由来。おうへんすなわちぎょくに虎と書くのは、古代、例の宝石が死後の虎の姿と信じられていたからだ。

 喰われる――。


 目覚めるとソファに倒れ込み、朝日に頬を嬲られていた。頭が痛いのは浴びるように酒を飲んでよろめき、こめかみを家具に打ち付けたせいだった。

 最早どこまでが現実であり夢だったのか定かでないが、は簡単に見つかった。机の引き出しの奥にしまったケースに、結婚前に贈られた琥珀のカフスとタイピンが収まっていた。いずれの石にも罅が入り、かつて受け取ったときは確かに小さな虫を内包していたはずだったが、一匹も見当たらなかった。記憶違いか、あるいは夜のうちに逃げ出したのだろうか。


 数日を無為に過ごしたのち、一度くらい顔を出さねばと病院へ向かった。

「その患者さんは、本日の午前中に退院されました。入院費はちょうだいしております。お迎えにいらした方から」

「……」




              der Bernstein【das Ende】



*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の』にて

 無料でお読みいただけます。

**初出:同上2021年5月(書き下ろし)

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

***⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/OH4n8wki

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薫陸香 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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