第813話 感謝回。別視点、階位参拾七位岩 持ち箸のうるし
岩持ち箸のうるしの生まれは陸奥になる。
最初から身分の高い方に向けて作られた箸であったうるしは、その名前の通りに漆塗りをされた絵柄鮮やかな高価な箸であった。
そんなうるしを手掛けた職人から商人の手を渡って納められたのは、さる大名家の末の姫の手。
美しい箸をたいそう気に入った幼い姫はうるしをとても大切に扱い、食器らしからず驚くほど長持ちさせた。
さりとて人の世は流れる。
姫が武家の縁談に倣って遠方に嫁ぐ事になったとき、向こう方は姫に対して酷な事を申し付けた。
すなわち女軽視の因習。嫁ぐ先に染まるようにと、元の家の家具一切の持ち込みを認めなかったのである。
今日まで使い続けたうるしを泣く泣く手放し、見知らぬ土地に嫁いでいった姫がその後にどうなったのか。うるしが知ることはなかった。
さて。持ち主のいなくなった箸がその後どうなったかといえば、元の家の食器棚の奥に放られることになった。
普通であれば用済みの箸など釜戸にでもくべるくらいが関の山。だが未だ美しく価値のありそうなうるしをそのまま灰にするのは勿体ないと、使用人の誰かが思ったらしい。
さりとて他人が長く使っていた箸など誰も使いたくはないのも道理。かくしてうるしは長く放置されることになる。
流れた月日がどれほどかと言えば、姫の実家も嫁ぎ先も途絶えてしまったほどの歳月と言えば、人の世の諸行無常を感じられよう。
そして荒れ果てた家屋に残っていた朽ちかけの家具の中から、一膳の箸が忽然と消えたのを知る者もいなかった。
うるしは幽世に来たばかりの事をあまり覚えていない。付喪神として化生したものの家の中がすべてだったうるしには、外の事など右も左も分からなかったのだ。
そんな中で最初に会ったのが、後々まで顔を付き合わせることになる『足引きのむすび』という名持ちの渡世人の帯であった事が、この後のうるしの幽世での生き方を決めることになった。
これが良い出会いであったかどうかを聞いたなら、うるしとむすびでは返ってくる答えが違う事だろう。
むすびは物知らずのうるしを生き辛い無頼の生活に引っ張り込んだ事を少し悔いており、うるしは物知らずの自分を騙さず世話してくれたむすびに感謝していたから。
現世で大事に使われていたうるしは存外に付喪神として強く、化生して間もないのに岩を持てるほどの剛力であった事もあるだろうが。
すでに名持ちであったむすびに連れられいくつかの生業をこなすうちに、うるしは界隈で『岩持ち箸のうるし』と名を得ることになる。
そして得た物があっただけ零れたものもある。朴訥なおのぼりさんであったうるしは、いつしか相方のむすびと並ぶ鼻つまみの凶状持ちとなっていた。
そんなふたりの人生に劇的な変化が訪れたのは、昔から赤ノ国で汚れ仕事を割り振る親分からの声かけが切っ掛け。
仕事はあろうことか白の領地に腰を落ち着けている鬼女の誘拐である。
職人とはいえ階位ひと桁の鬼女。並々ならぬ実力者を持つ相手を攫って来いとは中々の荒事。戯言と言われた方がまだ納得がいく。
しかし自分たち以外にも複数の名持ちを雇い、さらに雑兵二百まで繰り出すのだからよもや気の迷いではあるまい。
天狗山の頭目の名と金で腕の立つ者を集めていたそれに、うるしたちは嫌な予感がしながらも渡世の義理もあって手を貸さねばならなかった。
――――親分は言った。なにも真正面からではないと。
いかに鬼女が強くともひとりであり、彼女には自分以外に守らねばならぬ商売道具という弱みがある。
数名が鬼女の気を引いているうちに隠形に優れた別の者が家に入り込み、職人の命である道具を攫って脅せばよかろうとの策を聞かされた。
付喪神として聞けば反吐が出るような策であるが、まともに相対して制することができる相手ではないとはうるしたちも思っていたのでどうにもならぬ。
幸い鬼女の住処は赤との国境にほど近く、近くに民家も無ければ護衛などもつけてはいない。一番近い村にいる白羽の矢萩とその兵たちに助けを呼んでも、遠すぎて救援が間に合うわけもなし。
ならば手早く掻っ攫ってしまえば白の追っ手はついてこれまいとの、楽観した言葉を信じるしかなかった。
そしてうるしとむすびは捕らわれた。白く輝く葛籠の中に。
怪力自慢の自分が力の限り暴れたが、
閉じ込められる前に次々と周りの雑兵がこの葛籠に両断されていた光景を思い浮かべ、この中で自分もあのように切られるのかと
やがて葛籠から出されたときにはすべてが終わっていた。
死血散華。見知った名持ち達もある者は同じく捕らえられ、ある者は両断されて殺されていた。窒息死したように紫の顔色を浮かべた死体もあったやも知れぬ。
何より驚いた事と言えば、これらすべてやったのはみずぼらしい荷駄馬に乗った間抜け
なお葛籠が解けたら一目散に逃げるという考えはすぐに消え失せている。
なにせ周りを囲んでいたのは白の精鋭中の精鋭と謳われる挺身隊。さらにそれを率いていたのはあの音に聞こえた
瞬殺無音。鬼であろうと魔だろうと、誰を相手取っても音も無くひと振りで殺すと言われる
心残りがあるとすれば、うるしに気を取られてわずかな逃げる機会を失ったむすびに謝りたいと思った事だろう。
それからしばらく。うるしたちは連行された白の牢で枯死の刑を受けて死するまで苦しんでいたのだが、ここで思わぬ者が牢に入った事を知った。
牢番と連れ立ってきた頭巾猫と呼ばれる目の赤い白猫から、世間話のように聞かされたのは屏風覗きという人間の話。さらにいけ好かない天狗どもの命数が尽きかけている話も。
これは機会。天狗山の天狗にしてはマシだった桔梗という者から聞いた秘密の話が役に立つやもしれぬ。ここから出られるやも知れぬと夜陰に紛れて屏風覗きに話を持ち掛けた。
どちらかだけと言われたなら、せめてむすびだけでも助けてほしかった。
ここまでの牢での数日。屏風覗きは毎日やってくる面会人たちと楽しく談笑していた。当然として自分たちには誰も来やしない。渡世人とはそういうものだと思ってはいても、やはり虚しさは覚える。
しかもうるしが飢えにあえぐ中で日に三度の食事のにおいが向こうから漂ってくるのだからたまらない。かぐわしい白米の香りは何よりも拷問であった。
だからこそ、牢に居ながらにして待遇が良く、実にお人好しらしい屏風覗きに希望を見た。哀れな女の演技と多少の情報があればほだされるだろうと。
――――だが間抜け面のお人好しと思っていた人間は、どうしてうるしの見知った誰よりも暗い空気をまとった目でうるしを
いっそ交渉に足らぬ愚か者だと吐き捨てた。
進退窮まったうるしに出来るのは、持っていたすべてを吐き出してただ頼む事だけ。
そのなけなしの希望も、直後に屏風覗きが牢破りの凶行に及んで潰えてしまったが。
そう。少なくともうるしはそう思って絶望していたのだ。しかし翌日になってうるしたちは揃って枯死の術を解かれることになる。
残念ながら牢入と食事なしは変わらずであったものの、待遇に変化があった事であの人間が何らかの手を回したことだけは知れた。
それはつまり、まだ
またしばらくして。
死罪の罪を減じ、どことも知れぬ下界という土地に連れてこられたうるしたちはここで
目の前にはなぜか荷物を山と抱えた屏風覗き。護衛の鎧。そして白ノ国の最上位である血糊傘の
この人間に信を置いている。自分のお気に入りだと周りに示すように。
それも実に嬉しそうに。
力を弱め眠るほど朽ちかけている伝え聞いていたのが嘘のよう。四国いずれの土地でも人嫌いで有名だった傘の姿に唖然とした。
――――けれど、そのような気難しい傘が
例えば身分不相応に担いでいた荷物はいずれもうるしたちのための物であり、当然のように手ずから雑炊をすくって弱っていたうるしたちに振舞ってくれた事によって。
嘘偽り無い、人の慈しみが移った食事によって。
「白石様。お荷物をお持ちいたします」
あれから名無しの屏風覗きは白の方様から白石の名を賜り、ますます出世した。
うるしたちも砦での暮らしに慣れ、むしろ今までのどんな住処より快適であることに少し悩んでいるくらいである。
なにせこの砦の寝床は冬でも実に暖かく。蛇口とやらを捻れば労せずしてきれいな水が出る。稀にあばら屋で寝泊まりすることもあったうるしたちからすれば、見た目の勝手こそ違えどそこらの長屋よりはるかに上等。
また白石は何かというと食べ物をせっせと運んで砦に備蓄するので、うるしたちは食事にも困らなかった。
さらには甘味までもよく振舞ってくれる。これまでの人生でここまで日を置かず饅頭などを贅沢に食べた事など無かった。
初めはむすびと二人、女として囲われたのではと覚悟したのは今となっては恥かしい。
白石は二人にそのような欲を見せることなく、むしろ姪や甥の相手をするような態度で咎人である自分たちに接してくるのである。その態度に偽りが無いのは付喪神として食事をするたびよく分かった。
それだけに白石が下界の人間に捕まり拷問を受けた出来事や、幽世で大怪我を負って何十日も姿を見せなくなった時は、同胞のむすびや喜平と共に肝を潰したものであった。
新たに加わった人間のお町も加え、いつしかうるしは不思議とこの砦で暮らすのが楽しくなっていた。
下界は妖怪にとってあまりにも未開の地。不安はたくさんある。
しかし
――――かつて遠い地に不安を抱えて嫁いで行かれたうるしの主人も、もしかしたらかの地でそれなりに楽しく暮らす事が出来たのかもしれない。
そうだといいなと、うるしは思っている。
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