第794話 別視点。矢盾、弓の目覚めは血肉と共に
矢盾が完全に目を覚ました時、己の手は自分でも奇妙だなと思う事をしていた。
まるで近くにあるべき大事な物を探すようにペタペタと寝床の周りをまさぐっていたのだ。それが無いと分かると無性に残念な気持ちになり、それで目が覚めた。
違和感。解放感。爽快感。ずっと燻っていた煙が晴れたような気持ち。
やがてひとつの事に思い至る。先程から
(向こうの我が、矢萩が死んだのか? いや、まさか)
起き抜けに動揺した矢盾はそれでも集中する。いつもは頭がおかしくなりそうになるため努めて気にしないようにしている事を、今だけは真剣に探ろうとした。
(分かる。向こうの記憶は変わらず流れてくる。これは一体どうした事か)
大陸に伝わる古い術によって一人の分身を持ってしまった白羽の矢萩。
その分身側こそが矢盾であり、この禁断の術の特性として二人はそれぞれの記憶を常に共有している。
言うなればもうひとりの記憶を強制的に体験せねばならない身。慣れないうちは大変な苦痛だった。
しばらくしてどうにか意識しない事を覚えたが、それでも頭の後ろで他人の動きが分かってしまうのは気が散ってしょうがなかった事を覚えている。
だがどうした事か。今はあれだけどうしようもなかった事が意識しないと感じないのだ。
ふと思って矢萩の側に心の中で問うてみると、向こうも先程まで何も伝わってこなくなったために、こちらが死んだのでは考えていたという。
矢萩側の了解を得て寝床に寝たまま何度か試すと、どうも矢盾側に記憶を伝え合うか否かの選択権があることが分かった。
(どちらでも良い、あの苦痛から解放されるなら!)
矢萩もそれに同意し、いつまで出来るか分からないがこれからは必要な時以外は別個であろうと決めて共有を断つ。
解放されると分かればかすかに寂しさも感じるものの、やはり面倒から解き放たれる事のほうが嬉しかった。
(そうだ、倒れてしまったのだった。あれからどのくらい経ったのだ?)
「――――痛っ」
体を起こすときに頭が引っ張られたと感じて思わず口に出る。見ると束ねている己の髪に起き上がろうと手をついていたのが原因と知れた。
「触れる? な、なんだこれは」
髪の毛の疑問に始まり、やがてバタバタと体をまさぐっていくと矢盾は己の体の変化に戦いた。
「か、体に本当の肉がある!?
矢盾の人化術は見た目だけ。実のところは木偶人形程度の荒い形しかない。髪の毛などは特に顕著で、実は頭など坊主と大差なかった。
なのでこれまで髪がどこかに引っかかるなどありはしなかったし、引かれて『痛い』などありえない。
さらに問題は体。手に受けるその柔さはまるで本当の女のよう。
これまで見せていた通りの日焼けした女らしからぬ肌と、かなり慎ましい体形なのはともかくも。確かに血肉のある女の体であった。
平たい胸元を開いてワナワナしていた矢盾は、やがて掴むほども無いそれを手の平に収めて感触を確かめているところを錦の配下の女中に呼びかけられて飛び上がる。
「ま、待たれい! これはあれだ、体にどうも変調があって。それを調べていただけなのだ!」
誰に言い訳をしているのか分からない言い訳を続けようとしたとき、錦の配下からそれどころでは無い事を知らされ矢盾は一瞬で武士の顔に戻る。
「相分かった!」
いつもと勝手の違う体に手間取りつつも、矢盾は武具を身に着けて砦の物見櫓――――あの方の話では船の艦橋と言う場所らしい――――へと向かう。
勝手こそ変わったがむしろ力は異様に湧いてくる。これなら前よりも、矢萩よりも戦えるという確信があった。
「どけ、喜平! 錦殿! 殿は何処へ!?」
殿? と二人に返された事が矢盾には理解できない。殿と言えば一人であろうにと。
気持ちが伝わる前に矢盾は自分で目当ての相手を外に見つけ、艦橋に身を乗り出して叫んだ。
「殿ぉ! 殿ぉっ!!」
あちこちから大火の煙の手が上がる中、矢盾の仕えるお方は自慢の輝くきうぶを使って空を駆けていた。
「遅ればせながら! この矢盾をお連れください! 殿!」
必死に声を張り上げて注意を引くと殿は、つまり白石は矢盾の方に気が付き優しい笑みをくれた。
だが同行は許されず、弓兵としての役目を言い渡されてしまう。そしてその後は矢盾が呼びかけても止まることなく、共連れも無しで走って行ってしまった。
「錦殿、状況をお聞かせ願いたい! なぜ殿が単騎で出陣なされる!?」
高名な城化け物たる錦からの簡潔な話に目を剥いた矢盾は、射殺さんばかりに咎人の一人である喜平を睨みつけた。
「外に出た残りの咎人どもを助けに参ったと!? あの方はぁっ!」
思わず怯える喜平の顔を殴りつけたい衝動に駆られた矢盾であったが、かつて罪を犯した自分も白石に助けられた身であったと思い出す。
そういうお方だ。だからこそ自分もここにいられるのだと。
仕方なくやり場のない怒りを抱えて艦橋より上にある見張り台へと登り、言われた通りの役目に就く。そしてその役目はすぐに訪れた。
(――――
遠くに見える白石にずっと注目していた矢盾であったが、弓を引く者としての目はかすかな違和感を見逃さなかった。
「下衆が! 我が殿の砦を跨げると思うてか!」
自慢の強弓に一度に五本の矢をつがえ、剛力のままに引き絞ったそれを陽炎の向こうへと放つ。
このとき矢盾がもっと冷静であったなら、信じ難い勢いで矢が飛んだ事に気が付いただろう。
蛇の如くうねった矢は、まるで生き物であるかのような自由さで獲物へと襲い掛かる。
いずれも過たず首を貫かれた犠牲者たちは、大筒の直撃でも受けたかのように大きく後ろに吹き飛んだ。
中には背後の火の中にまだ生きたまま飛び込むことになった運の無い者もいる。いずれは首の傷で死ぬだろうが、焼かれて余計に苦しむことになるだろう。
「不埒者!」
さらに一射。今度は一本のみ。複数の矢を放つにはさすがに位置が遠い。
遠く離れた場所でも白石の姿だけは何故か矢盾にはっきりと見えた。その背後に忍び寄る暗殺者の姿も。
その首を目掛けてもっとも引き絞った矢を放つ。あまりにも遠いために矢が届いたのは心の臓が何度も打った後である。
(おのれ、火勢に煽られたか。わずかに逸れよった)
風や火の勢いも十分に頭に入れた一射であったが、近くにいる白石に誤って当たるやもという懸念が余分な間合いを矢盾に取らせる。結果として狙った首では無く暗殺者の肩に当たってしまった。
即座に二の矢をつがえたとき、戦場を渡り歩いてきた弓の鋭い耳に確かな悲鳴が聞こえて射撃を止める。
(なんと、すでに砦に入り込まれていたかっ!?)
悲鳴の主は深町と呼ばれている娘だと気が付いた矢盾は、一瞬どちらに注力すべきか逡巡する。
このまま白石の援護か? 侵入者を迎え撃つか?
(止むを得ん! 殿っ、御武運を!)
己は白石からこの砦の番を任されている。その任を捨てて砦の中を敵に好き放題されてはそれこそ不忠と、深町のいる部屋まで駆け下りる。
狭い通路を走り抜けて部屋の直前まで来た矢先、突然その部屋から黒い何かが反対側の壁にものすごい勢いで叩きつけられた。
跳ね返ってドサリと床に転がったそれに矢盾は見覚えがある。
それもつい先ほど。白石の背後に忍び寄っていた者と同じ服装の別の男だった。
「何者!?」
思わず口に出た言葉だが答えは初めから期待していない。倒れ伏した男はピクリともせず、
おそらくは力任せに投げ飛ばされたのだろう。それこそ鬼や牛の如き怪力で。
つい妙な女言葉を使う知人の牛を思い出し、矢盾は気を抜くなと自らを戒める。
「や、矢盾様ですか?」
「喜平? 貴様もいるのか? よもやこれはお前が――――」
深町はただの小娘。喜平は市井の大工。どちらにもこのような力技はできない。
錦の配下の何方かかと考えて、それでも慎重に部屋を覗く。見ればただでさえ狭い部屋に五人もの人がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
最も背後には縮こまった深町がいる。それを守る様に喜平と錦の配下の女中。
――――そして、見慣れぬ異人が二人。血のように赤く、極めて破廉恥な出で立ちの南蛮人が最前列にいた。
初め矢盾はこの者たちも深町を襲おうとしているのかと思ったが、むしろ異人たちは後ろを庇っているようだった。
事実、思わず短刀を抜いた矢盾に対して異人たちは特に敵意を向けずに、味方が来たように姿勢を緩めるのみ。
「おお、お味方ですっ! 矢盾様、お味方です! この方々が我らを助けてくださいました」
慌てながらも喜色を浮かべた喜平の言葉。矢盾も変わった衣服の異人たちから受ける印象で、ある事を思い出す。
それはつい先日の事。白石の供として異界を訪れたときに出会った南蛮の鬼が出したとある道具の事。
白石は何も無い場所に置き去りにされたそれらを哀れに想い、自らこの砦まで運んでやったのだった。
「たしか『そは』、という南蛮の椅子であったか? おまえたち」
言葉が通じているのか通じていないのか。異人らしい顔立ちの二人の表情は矢盾には読めなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます