第232話 別視点。秋雨 離れの犬、猿と出会う

「しばらくご厄介になることになりました鬼胡桃おにぐるみと申します」


 潰れている喉の苦痛に耐え、口から血のにおいを漂わせながらも一匹のましらの経立が最後まで口上を言い切った。


(な、なんで離れここは、誰も彼も恐い方ばかりが訪れるんでしょうか)


 離れの主人が予想より早く戻ってきた事をいち早くにおいで知った秋雨は、他にも記憶に無いにおいが漂ってきた事で屏風覗きが客を連れてきたのだと思っていた。


 手早く接待の準備を整え、お茶を淹れるために土間で湯を沸かしていた秋雨は、屏風覗きが伴う人影を見て全身の毛が恐怖で逆立つのを感じた。


 ひとりは白玉御前のお持物にして血糊傘と呼ばれる傘の付喪神、轆轤ろくろ様。


 稽古とはいえあの・・立花様の攻めを防ぐほどの豪の者であり、それ以上に荒々しい気性で恐れられている人物である。


 秋雨はすでに轆轤ろくろと面識があるものの、向こうからはあまり良い印象を持ってもらえていないのは態度から明らかだった。彼女がいる時に粗相をしたら最後、秋雨などいつ気まぐれにその豪腕で打ち殺されるか分からない。


 同じく御前の式神であるおぞましい怪物、手長足長も頻繁に離れを訪れる。こちらは幾分慣れてきたが、やはり獣の本能が恐怖で絶叫することは止められない。

 いくら襲ってこないと知っていても、虎や熊より恐ろしい化け物が己の近くを徘徊しているのに落ち着けというのは弱い犬には無理な話だ


 ほかにも白、雪様が自らこしらえた食事を持って訪れる。御前お傍衆、頭巾猫の最高峰たる金糸白頭巾のリリ様が屏風覗きの治療に参られる。守衛隊長のとばり様がそわそわしながら訪れる。


 秋雨が今まで生きてきた中で、これほどの人数の目上に頻繁に会ったことなどなかった。何よりいずれも怒らせたら非常に恐ろしい方ばかりである。若輩の経立はひたすら震えるしかない。


 そして今回、離れの主人が連れてきたのは南きっての暴れん坊。


 山本組の鬼胡桃おにぐるみといえば、見回り時代に西を担当していた秋雨も聞いたことのある凶状持ちの妖怪だ。本名は胡桃くるみという名のましらだが、とある凶行を頻繁に働いたことでその名の前にを付けて呼ばれるようになったらしい。


 喧嘩する相手が男子おのこであれば、問答無用で睾丸を潰す。玉潰しの鬼胡桃おにぐるみ


 知識として睾丸が男子おのこの急所であることは知っている。知り合いの男衆もこの話を聞いたとき、明らかな怯えのにおいをさせていたものだ。

 さすがに女子おなごの秋雨には痛みを想像することしかできないが、どこであれ体の一部を潰されるのだから激痛であろうと思い、残酷な方法で勝負を決めるましらに少なからず恐怖したものだった。


 そんな鬼胡桃おにぐるみが恐れ多くも白猫城の敷地にいて、なぜ離れに匿われている秋雨に殊勝な挨拶などしてくるのか。訳が分からない。


「よろしくお願いいたします、秋雨のねえさん」


 深く頭を下げる大猿の行動に、理解の範疇を超えた犬は離れの主人に助けを求める視線を送った。しかし、屏風覗きは忙しいらしく両者の顔合わせもそこそこに轆轤ろくろ様と再び外へと出かけて行った。


 わずかにかけられた言葉は先にいた秋雨が上、後から来た鬼胡桃おにぐるみが下なので、そう扱うようにという上下関係の指示と、何か・・あったら『屏風覗きの客』として守るようにとの言葉だけだった。


(無茶言わないでくださいよぉ)


 後に残されたのは喉をやられて顔色の悪いましらと、それ以上に顔色の悪くなった犬だけである。


 今後、自分はあと何度途方に暮れるという心境を味わうことになるのだろう。それでも酒保の恩婆おんばが秋雨にきつく言い聞かせてきたように、この離れにしがみつくことは自分にとって唯一の希望。踏ん張りきるしかない。


「まず、声は出さなくていいです。痛めているのは分かりますから。私の痛み止めを分けますので、ふたりで白湯でも飲みましょう」


 沸かしたお湯が勿体ないのでちょうどいい。秋雨の言葉に鬼胡桃おにぐるみも静かに頷いた。


 事情がさっぱり分からないうえに相手は喋れる状態ではない。ならばすべての疑問はうっちゃって、この離れでしてはいけない事を言い聞かせることから始めたほうがいいだろう。なにせ命にかかわる事だ。


「ここは身分の高い方が参られることが頻繁にあります。無礼を働けば貴方はもちろん、屏風様や貴方の大事な方にもお叱りがあると思い心しなさい」


 自分が上、自分が上と、己に暗示をかけるように頭の中で繰り返して目の前の強者に相対する。これだけ弱っていようと間違いなく自分より強い妖怪。だが、秋雨とて先達として気持ちだけでも負けるわけにはいかない。犬の経立として最初の上下決めの大切さは本能に刷り込まれている。


 出された薬と白湯に手を付けず、姿勢を正して秋雨の言葉を聞く鬼胡桃おにぐるみに少し感心した。


 山本組と言えば荒くれを徹底的に躾けることで有名な任侠一家。それは聞いていたが下手な町人より作法が出来ている。あるいは自分よりらしく・・・見えるほどだ。片目に走った深い傷痕を差し引いても、名のある武家の出のようにさえ思えた。


 それだけ目上とのやり取りが厳しい社会ということだろう。粗相をすれば殴られるでは済まないとなれば、いかな乱暴者でも作法のひとつも身に着けるというものだ。できない者などすぐ土の下に違いない。


「特に気を付けることがふたつ。これは本当に命にかかわるので絶対に守ること」


 秋雨がこの離れで一番重要と考えているふたつの事を伝える。ひとつは手長足長の来訪だ。この名を出したとき目の前のましらが大きく目を見開いて、信じがたいという顔をした。


 彼女の心境が秋雨には痛いほど分かる。妖怪たちにとって死が訪れると同義の存在、それが手長足長である。ひとたび狙われれば誰も助からない。一切の攻めが通じず、どんな守りにも入り込み、昼夜を問わず襲いかかる最悪の怪物だ。


 とにかく惨たらしく殺すことを好み、周囲に哀れな犠牲者の苦痛が分かる形で死体を散らかしていく。秋雨など初めて散らかされた現場・・を見たとき、我慢できず嘔吐したほどだった。


「しかし、ここでは害はありません。決して怯えて悲鳴など上げぬように」


 自分とて震えはしても悲鳴だけは上げなかったのだ。まがりなりにも鬼の名を冠された者なら難しくはないだろう。


 それに手長こそ今でも怖いが足長のほうはずいぶん慣れた。それは屏風覗きとの他愛無いじゃれあいを見て、少なからず『童』という見方ができるようになったからだろう。そうなると秋雨も意外と足長に構えるようになった。


 特にきつねやから戻らない屏風覗きの帰りを待つように、じっと玄関前に座っていた姿は昔の妹たちを見るようで心が揺さぶられた。


(心が無いわけではないのでしょう。その心を通わせる者が少ないだけで)


 ある日、足長が地面に枝で絵を描いていたことがあった。


 つたなく、分かりにくいが、秋雨には仲良く一緒にいる手長足長と、そしてふたりに囲まれて笑う屏風覗きの姿に見えた。


 その絵に最近秋雨らしき人も加わって、どうしようもなく胸を締め付ける。


 恐怖の権化。最悪の怪物。非道の肉塊。かの式神は忌避されるだけの事をしてきた。


 それでも、この離れでは無邪気な童としてここにいるのだ。


「御前の式神で在らせられるからには無礼は万死。屏風様もかわいがっておられますので、そこを肝に銘じなさい」


 息を飲んだ鬼胡桃おにぐるみの頭の中でどんな思考が行われたのかは想像するしかない。しかし、彼女のにおいからいずれかの人物への畏れを嗅ぎ取った秋雨は満足した。


 御前への畏れ、手長足長への畏れ、あるいは屏風覗きへの恐れかはこの際どうでもいいことだ。大事なのは不用意な行動や言動を戒める下準備。それができればひとまず十分。


「では今ひとつ、こちらも大事な事です。屏風様の食事はさるやんごとなきお方が用意されます。我らが手を出すことは許されません」


 これは特に何か思うことがなかったようでましらは素面で首肯した。だが、そのあっさり具合に秋雨は引っ掛かりを覚えて自分の言葉を反芻し、解り難かったかと補足を加えることにした。


「屏風様の食事に手を付けることはもちろん許されませんが、あの方に食事を作る事・・・が許されないということです。間違えないように」


 補足を聞いて初めて『理解しかねる』という顔になった鬼胡桃おにぐるみに、秋雨はちょっとだけ仲間を見つけた気分になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る