第17話 別視点。過去のカラスと今のカラス

 とばりに化生になる以前の事はほぼ記憶に無い。唯一の記憶は凍るような冷たい雨にうたれて震える寒さだけ。その後も意思は途切れ途切れで、明確な個を持ったのは幽世に移ってからになる。


 幽世では入ってすぐに同じカラスの化生が集まる山に連れていかれた。今思えば、来たばかりで右も左も分からない者を同族のいる場所に放り込むのは一種の救済措置だったとわかる。当時は大変恨んだものだが。


 一口に妖怪と言っても多様な種類がいる。どこまでも個の存在もいれば集団で生活することが当然の種族もいる。さらには集団に秩序をもたらし、まるで人間のような組織を作り上げる種族もいくつか存在した。例えば天狗という妖怪もその一派だ。


 天狗の社会は排他的で同族以外を嫌い上が絶対の階級社会だ。修行によって自己を高めることを至上命題と公言するわりに、実際は縄張りと秩序の維持に異常な執着を見せる。その行動の根底にあるのは原始の獣の理論。


 何のことはない、天狗はそのほとんどがカラスやオオカミ。畜生から化生した妖怪なのだから。


 強固な縦社会で末端は悲惨だ。半ば強引に修行を受けさせられる傍ら食料集めに駆り出され、その成果の大半を見知らぬ上位者たちに持っていかれる。天狗の山にきてしばらく、とばりには苦痛と飢えの記憶しかない。


 術の覚えが悪い。それだけでもはや天狗の社会において末端から抜け出せないことが確定したとき、とばりは目上へのなけなしの忠誠を放棄した。


 食料は見つけたその場で食べる、言い付かった役目はバレない程度に手を抜く、誰であろうと敬うフリだけにする。咎められても反省など微塵もする気にならず、ぼんやりと叱責という嵐が過ぎるのを待つだけになった。それらの行いがますますとばりの立場を悪くしたが、未来に希望のない捨て鉢の者にはもはや知ったことではない。


 ろくに会ったこともない上役が山からの放逐を言い渡してきたとき、とばりは久しぶりに笑った。


 社会から弾き出された者に居場所はない。どこへ行こうと余所者であり、話もできなければ物を取ることも交換することもできない。どんな土地も誰かしらの縄張りで、腰を下ろして休んだ端から石を投げられ追い出されることもあった。


 それでも生きることを止めない者たちは往々にして生活の困難な場所に向かう。例えば寒い土地は昔から流刑地の定番だった。例えば未開の土地は違う世界として恐れられた。


 はぐれカラスが選んだのは死地。作物が育たぬ土と、三月飲めばのたうち回って死ぬという毒性のある水しか湧かない捨てられた土地。

 痩せこけた体を誰かに踏みつけられて死ぬより、ひとりで土に還りたかった。


 その日、真っ白の毛を持つ猫の化生に出会わなければカラスは本当に死んでいただろう。


 頭の中まで擦り切れた痩せカラスが再び物を考えられるようになったのは、拾われてからずいぶん経った後のこと。無心で与えられる食べ物を腹いっぱい食べ、温かい部屋でひたすら眠ることを繰り返していたある日、ふと己が生きていることを思い出した。


 猫の化生は毎日決まった時刻に来訪する。それより前にカラスは身を正し平伏して待った。山で覚えさせられた嫌で嫌でしかたなかった礼儀作法を必死に思い出して。最大限の敬意と感謝を表す方法をこれしか知らないがため。


 夜の闇から取って『とばり』と名付けらたカラスは、白玉御前がまだ御前と呼ばれる前から仕える立花という付喪神の部下として取り立てられた。より正確には保護下に入った。この頃のとばりは何の取柄もない小汚い野良ガラスでしかなく、役に立つことなど無い五穀潰しでしかない。


 かつての上役に似た空気を持つ立花様の下で改めて鍛錬を積む。本音を言えば白玉御前様の元に直属で仕えたい、しかし今の自分のような無能に許されることではないし、立花様の事は苦手ではあっても嫌ではないので苦痛に感じても逃げる気にはならなかった。


 何より鍛錬が終われば飯がたくさん食える。それだけでもとばりにとっては極楽と言っていい待遇だった。相変わらず術の覚えは悪くとも、忌まわしい天狗の山時代の記憶をほじくり返してでも鍛錬することに躊躇いはない。鍛える理由があればこれほど心構えが変わるものかと自身に呆れるほど研鑽に熱心になっていた。


 とばりが拾われてからわずか数年たらずで幽世の様相は様変わりをした。土地毎に気炎を上げていじましい小競り合いを続けていた小集団は消えさり、今は四つある大派閥のいずれかに属している。さもなくば滅ぼされた。


 古き時代から大妖の治める三つの土地と、化生となって百年経たぬ新参も新参の白猫が開拓した不毛だった土地。それぞれ治める大妖怪の色をもって『赤ノ国』『黄ノ国』『藍ノ国』『白ノ国』と称される四国が幽世に生まれる。


 白ノ国の大妖は見たこともない品を生み出す不思議な術を使う。そう囁かれるようになったのは、白ノ国との取引を三国いずれもが切れないほど依存した頃。気が付けば物流のすべてを若い猫が牛耳っていたのは白ノ国では定番の自慢話になっている。


 それらの国で一番ワリを食っているのが、かつてやさぐれた下っ端を追い出した天狗の山のある赤ノ国であることに、近年守衛のお役目を賜った一羽のカラスが暗い喜びを覚えているのは誰にも内緒の話。

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