第9話 キツネ ガ ホンショウ ヲ アラワシタ

 ようやく辿り着いた隠れ宿で『女将?』とのやり取りもそこそこに水をガブ飲みする。柄杓(ひしゃく)の一杯では間に合わぬほど体が水を求めていた。今なら青春野球マンガ御用達の例のヤカン丸々飲める。


 食事の前に汗だくの体を清めるべく風呂に直行する。『女将?』も先に洗濯物を受け取っておいたほうが都合がいいとのことでついてきた。


 脱衣所の向こうで控える『女将?』に洗濯籠を渡して湯気の中何度も湯を被る。足に湯がかかるたびに痛みとも違う痺れるような感覚があった。足の裏にいたっては皮が浮き上がってきそうなほど腫れぼったくなっている。これはお湯につかると逆効果かもしれない。いっそ桶に水を張り炎症を起こしている足を冷やしたほうがいいか。『女将?』が湿布を持っていることを期待しよう。


 足の痛みを庇いながらどうにか入浴を終え脱衣所に戻ってきたとき、何となく予想していたことが現実になったことを知った。置いていたスマホっぽいものがない。昨夜は用意されていた着替えの浴衣もフンドシも見当たらない。てぬぐい一丁、振り回し放題フリーダムチンな状態で困惑する。


 ちょっとはみ出るが全裸よりマシかと、やむなく濡れたてぬぐいを腰に巻き付けてあたりを伺う。なんとなくどんな状況かは分かってはいるが、確信がないと納得しないのは平和ボケと言われても文句は言えないだろう。昼のことも未だに実感のない夢の中のような気分なのだから。


 これは害意。硫黄の臭気に紛れて入浴中から嗅ぎ慣れない漢方のような生臭い臭いが立ち込めているのは、おそらくそういうもの。


「なぁんで効かんのですかぁ? ねぇ、お客さん」


 暗い脱衣所の出入口にまず前足が壁にかかった、次いで尖った口が、最後に光を反射する獣の圧のある眼。直立の狐『きつねの隠れ宿の女将?』がぬるりと壁に影を這わせて現れた。


 言葉はまだ丁寧なものの苛立ちを隠せない口調。割れた釣鐘でも叩いたように歪んだ声質は、近くとも遠くともとれない不確かな木霊のよう。そこかしこで反響して耳を塞ぎたくなるくらい不快だ。よだれを垂らす口は首まで裂けそうなほど開き、目は直視した瞬間すくみあがるほど不吉な色に輝いている。


「薬も効かん、術も効かん。ほんとう面倒で面倒で」


 一瞬、目の前にいくつかの煌めきが見えた。


「本当に、面倒」


 たぶん何かしらして成果がなかったのだろう。いよいよ顔を歪め、長く真っ赤な舌をベロリと垂らす狐。しかしこちらが戸惑っているのを見て取ると、どのような心境変化をしたのか一転して人懐こい笑みを浮かべた。その手には着物の袖から出したスマホっぽいもの。


「ねえ、お客さん」


 狐がそろりと近づいてくる。さりげなく一歩、また一歩。ついさっきまでの醜悪な姿など無かったように。


「コレはどう使えばいいんですかねぇ?」


 狐の足元から伸びた影が纏わりつく。体温を吸われていくような寒気を感じて思わず後ずさる。


 探っている、この狐はこちらに付け入る手口を探っている。鉄壁の扉を前にそれでもカリカリと爪を立てて、入り込む方法を執拗に模索している。暗いままのパネルを突くカツンカツンという音がいやに高く聞こえた。


 ドン臭く危機感の足りないヤツがこれまで無事だったのは、スマホっぽいものからポイント引き換えで得た<自動防御>のお陰に相違ない。これを使用した時刻はいつ頃だっだか。


 <自動防御>のルール、1回で12時間の防御。午前中だったのは間違いないので日付けを跨ぎ、少なくともあと数時間は効果があるはず。効果も抜群だ。日のうちに出会った賊の槍はもちろん目の前のおっかない狐が攻めあぐねるぐらいなのだから。


 ただし、問題は朝まで持たないということ。


 もとより危ういのはわかっていた。ログが正しいことも賊の攻撃ログでほぼ確信していたのだから。それでもどこかで他人事に思えて上の空だった。疲労、足の痛み、非現実感、いや言い訳か。警告されていてこのザマだ。根拠も無いのになんとかなるだろうと考え、惰性で動いた結果がこの事態だ。


 追い詰められていくうちに湯船に差し掛かる。ドブンと浸かった足は湯の熱でひどく痛んだ。


「あら、湯は触れるんですかねぇ」


 明るくそれでいて悪意に満ちた声に合わせ、湯船から幾束もの水流が蛇のように体を這い上がってくる。慌てて手を振って払っても飛沫になるだけですぐさま水流に戻り逃げられない。やがて首に到達した水が喉に巻き付き圧迫し始めた。


 だが幸い軽く抑えられている程度で息が詰まるほどではない。水流はさらに上へと昇り顔を覆うもこちらは到達した端から消えていくのが分かった。どうやら窒息や溺死の心配はなさそう。思惑通りにいかなかった獣の不満げな唸り声が聞こえた。


「なら熱湯はどうですか?」


 新たな水流が大量の湯気を纏って源泉から鎌首をもたげる。熱湯という単語が先ほどから足に感じる痛みの原因を連想させ、思わず顔が引きつる。<自動防御>は何をどこまで防いでくれるのか。浴びせられた熱湯で白く皮膚が爛(ただ)れるさまが頭によぎるより早く、天へ撒き上がる熱湯の大蛇が滝となって落ちてきた。

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