愛という名の支え

ネオンの青や赤の人工的な明かりが街を染め始めているなか、ハルオは急いでいた。行く当てもない雑踏が繁華街を埋め尽くし、ハルオは足早に抜けていく。乱れた息が口から突いて出ていき、縮こまり漂う冷たい空気を白く染めていた。

 シティーホールの野外階段をハルオが駆け上がり始めた頃、屋上の公園のベンチに腰を下ろしたケイコは、哀し気な顔を浮かべながら街灯の明かりを頼りに手作りの本を読み始めていた。

 「ごめん」

 乱れた呼吸を整えながら、ハルオの歪んだ顔が下を向いている。

 「遅い」

 語尾を伸ばすようにケイコは嬉しそうにそう言うと、顔を上げたハルオにさらに頬の筋肉を緩めた。

 乾いた風が突き刺すように二人のいる公園を抜けていく。丸い公園を囲むように立ち並んだ木々の間に設置された照明が、真直ぐな光を公園の中央に集めている。周囲二百メートルほどの公園に置かれた木製のベンチの側には、一つの街灯が光を乏しく落としていた。ハルオはケイコの横に座ると、落ち着き始めた呼吸を一度止め、一つ深く息を吸い込んだ。そして少しの間冷たく乾いた空気を胸に溜ると、それを長々と吐き出し、煙草を口に挟んだ。

 左手に作った壁のなかにライターの火をつけ、そこに銜えた煙草をハルオが近付ける姿をケイコは嬉しそうに眺めている。

 「はい」

 つけ終えた煙草の煙りを風に流したハルオに、ケイコは手にしていた白いカップを差し出した。

 「遅いから冷めちゃったよ」

 差し出したカップに視線を向けながらハルオは軽く唇を緩めた。

 「ごめん」

 冷えきった手にコーヒーの温もりが伝わる。

 「ありがと」 

 蓋を開けるとハルオは上がり始めた湯気に鼻を近付け、そして静かにそれを口に含んだ。ハルオから漏れた息を耳にしながら、ケイコは嬉しそうに微笑む。

 「美味しい」

 「ん、美味しいよ」

 さらに頬の筋肉を緩め、ケイコは顔全体で微笑むとそのまま下を向いた。確かに上手かった。それが季節のせいなのか、それとも横にケイコがいるからなのか—。ハルオは煙草を銜えながら少しの間考えた、答えは直ぐに出た。ハルオは鼻で笑うと、煙草を吐き出した口にコーヒーをゆっくりと運んだ。

 突き抜けていく風が口から出ていく煙りを直ぐに連れ去っていく。冷えきった体にコーヒーが流れていくたびに、胸に熱さを覚え息を漏らしていた。

 「ねえ、書いた」

 「ああ、書いたよ」

 ハルオが微笑む。

 「じゃあ、ちょうだい」

 同時にケイコが手を差し出した。ハルオは唇を微かに緩ませケイコを見ると、足下に置いた鞄から一枚の白いポストカードを取り出した。ハルオは一度それを見て、肩で笑うと差し出された手の平に置いた。

 「ありがとう」

 両手で持ったポストカードに嬉しそうにケイコは笑った顔を向けていた。ケイコは身を縮めるようにして真剣な目で、ポストカードに書かれた文字を追っていった。


 「僕という木を支えてくれる者がいる

だから、風に折れることもなく

その軌跡を感じられ

同時に葉の囁きを流すことができる

そして、僕という木は

支えとともに高々と真直ぐに伸びていく」


 二人の座ったベンチのすぐ後ろに建った柱の先についた丸い時計は、時を刻むことを辞めていた。ハルオは遠くを見るような目で、光の集まる公園の中央を煙草を銜えながら見つめている。

 「ねえ」

 さっきまで嬉しそうにしていたケイコの姿は何処にもなかった。

 「うん」

 ハルオは頷くと、そんな子供のように不安じみた姿をしたケイコに振り向いた。

 「ごめんね」

 哀しそうな声が下を向いたケイコの口から流れ出ていった。

 「なにが」

 押し殺したようにハルオが煙草の煙りと言葉を一緒に吐き出す。

 「いつまでも、はっきりしなくて」

 ケイコはまた別に男がいた。ただハルオだけがそれを知っていた。

 「いや、いいんだよ」

 また遠くを見るようにハルオは公園の中央に視線を向けている。

 「お前が幸せになれる方へ、行けばいい、、、お前が居場所を決めればいいよ」

 胸に苦しさを覚えながらハルオはそう言うと、少し冷めたコーヒーを口にした。

 哀しそうに下を向いたケイコをしばらく見つめると、ハルオは煙草を外した手をケイコの肩に伸ばし引き寄せた。腕の中でケイコはじっとしている。ハルオは複雑な気持ちを抑えながら、押し殺すように言った。

 「どうした」

 泣き出しそうな空気がケイコから漂い、ハルオは下を向いた頭を見つめる。そして何も言わずに包み込むようにケイコを抱き締めた。

 「ごめんね、、、本当に」

 掠れ始めた声に啜り泣く音が交じり始めていた。

 「もう謝るな、いいんだよ、、、別に俺は今も幸せだよ」

 一息ついてからハルオは心を込めた話し方をゆっくりとし始めた。

 「お前と出会ってから本当に、、、いい時を過ごしている。空想でも現実でも、こうしてお前を心の支えとしていられる自分が本当にありがたいよ」

 行き場のない感情がさらに溢れだし、なんとかそれを堪えようとするケイコの声が辺りに響き始めた。ハルオは姿勢を直し、しっかりとケイコを腕の中に入れると、耳元で静かに言った。

 「約束するよ、お前がどっちらに行こうが俺はいつまでも支えとする。

別れてもお前といられた時の自分を好きでいるし、ケイコという一人の人間と出会えたことをなによりも感謝し、支えとする。

 お前が幸せになればいい、、、。

 ただそれだけだ、この関係を望んだのは俺だ、安心しろよ、、、どういう結果になっても誰もお前を責めはしないよ」

 囁くようなハルオの言葉が小さな虫の鳴く音のように、ケイコのなかに流れ込んでいた。ハルオは込み上げてくるものを堪えながら、しっかりとした表情を作り、澄んだ夜空を見上げている。

 「うん」

 涙に荒れた呼吸とともに言葉が微かにハルオに聞こえた。

 「大丈夫か」

 しばらくして落ち着き始めたケイコが体を動かし、ハルオは手の力を緩めた。

 「ごめんね」

 笑みを頬と口元に微かに浮かべたケイコが、涙に赤く染まった目を哀しそうにハルオに向けている。ハルオは引き攣らないようにゆっくりと口元を緩めながら小さく頷いた。

 まだあの時計は時を進めてはいなかった。一年後の同じ日、ハルオは公園にゆっくりと向かった。「7時45分」、あの時計は指し続けている。ハルオはゆっくりとベンチに向かって歩き始める。冷たい風が吹き抜けるなか、体にその軌跡が纏わり付いている。同じはずの時に、ハルオは恐ろしく空気の冷たさを感じていた。

 闇に取り残されたような丸く小さな月が自らの光に霞んでいる。突然哀しくなった心にハルオは唇を噛み締め、溢れ落ちそうになる涙を月を見上げて堪えていた。

 「幸せになればいいんだ」

 誰かが言っていた言葉がハルオの頭のなかに広がり、辺りに抜けていった。

 「幸せになればいいんだ」

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