《後編》

 昌也はアルバイトを始めた。精肉店のバイトだ。給料がいいので選んだのだが結構な重労働だ。


 放置されている賞味期限切れの肉を冷蔵室に戻す。


 しまった、と気付いた。


 冷蔵室の扉を閉めてしまった。冷蔵室は冷気が漏れないようにかなり頑丈に閉まるようになっているのだ。


 やばい、閉じ込められた……!


 扉に緊急事態の時の開け方が載っている。

 慌ててそれを実践しようとするが上手くいかない。


 昌也は先程までスライサーの部品を熱湯で洗っていた。そして今、急激に寒い冷蔵室にいる。


 目眩がした。環境が変わったからか最近あまり眠れていない。

 手がかじかむ。

 息が白い。


 昌也は完全にパニックになっていた。


 どうしよう……! 何で開かないんだ⁉




 頭に浮かんだのはずっと昔、子供だった頃のこと。

 昌也と天使は出会ってすぐに仲良くなった。


 大抵は昌也が小学校での出来事を話し、天使が聞き役になった。

 天使は自分の事を話したがらなかった。


 帰り際になると昌也は天使に頼み込んだ。


「ね、羽を広げてみせてよ。ちょっとでいいから。ね、いいでしょ?」


 天使は背中の羽を昌也に見せようとしなかった。


 当時学校で流行っていた一生のお願いポーズで拝んだが、天使は「ごめんね」と言って頷かなかった。


 結論から言えば、一度だけ天使の羽を見ることが出来た。今思うと小賢しくて自分に嫌気が差す。


 あの日、昌也はいつものように公園に行った。


「あのね、今日は僕の誕生日なんだ。それで誕生日会があって遊べなくなっちゃった。ごめんね」


 天使は驚いて、困った顔をした。


「どうしよう、僕プレゼント用意してないや」


 昌也はなるべく今思い付いたのだという態度で提案した。


「じゃあさ、君の羽を見せてよ。それが誕生日プレゼントってことでいいから」


 天使はおそるおそる羽を見せてくれた。

 天使の羽は真っ白だった。


 しかし、昌也は顔を強張らせた。


 羽はコウモリのようにギザギザしていた。さながら悪魔のそれのように。


 自分が天使に何を言い捨てて帰ったか覚えていない。

 ただ心臓が嫌な音を立てていたことだけは鮮明に記憶していた。


 それから、大学生になって再会するまで天使とは会わなかった。




 カチャカチャと冷蔵室の扉の取っ手を操作しようとする昌也の手から力が抜けていく。


 もう、いいや……。どのみち、死ぬつもりだったんだから……。


 ここに朝まで放置されたとしてもきっと死にはしないだろう。だから、何がもういいのかは自分でも分からない。

 そして、生きる理由はこれまでと変わらず何もなかった。


 目の前がぐらりと揺れて、靄が掛かったように何も考えられなく……。


 ガタ、ガチャンッ!


 唐突に扉が開け放たれた。

 温かい空気と蛍光灯の明かりを感じる。


 昌也は強い力で冷蔵室から引っ張り出された。


 天使だった。

 焦りと不安と安堵がないまぜになってぐちゃぐちゃの泣き顔をしていた。


「ぶ、無事なの⁉ 昌也君!」


「ぶ、無事です」


「良かったぁ……。もう、昌也君の馬鹿……」


 そう呟いてしゃがみ込んだ天使は最初に再会した時の性別不祥の大学生という姿だった。


「天使?」と昌也が呼んだ。


 天使がやっと微笑んだ。

 くしゃくしゃの笑顔なのに美しい。静謐な気配を纏っているようだった。


「……ありがとう、助けに来てくれて」


 差し出した昌也の手を天使は少し見つめ、そっと掴んで、消えていた。


「……えっ、ま、待ってくれ、どういう」


 天使の姿はどこにもなかった。手の中には手紙があった。





昌也君へ


 君が子供の頃のことを思い悩んでるのには気付いてた。君が僕の羽を見て嫌になったのは当然のことだよ。

 どうかもう気にしないで。


 僕は悪魔だったんだと思う。

 あの頃、君から生きる気力を奪ってしまったんだ。わざとじゃないんだけど。『希望』みたいに呼ばれるものかな。


 それを君に返すのに時間がかかってしまってごめんなさい。僕はあの羽を差し出す引き換えに君に会いに来ることを許された。


 羽を失った天使はそんなに長く生きていられないんだ。存在自体が消えてしまうらしい。


 それを君に伝えるか随分悩んだけど、君が自殺しても僕には会えないことを証明しておかなくちゃいけなかったからね、全く。


 僕のことを忘れて生きて。


 きっと君なら素敵な生きる理由を見つけて素晴らしい人生を歩めるよ。天使のお墨付きだから自信もっていいよ。さよなら。





 昌也はキーホルダーを鞄から吊り上げた。ギザギザの純白の羽のデザイン。天使の羽そっくりだ。


 天使が手紙に書いた「僕のことを忘れて」とは逆に、昌也はあの日のことを思い出していた。


 天使の羽を見た日だ。


 ――小学一年生の昌也は天使に訊いたのだ。


「……何で、そんなギザギザなの?」


 天使は僅かに沈黙してから言いづらそうに話した。


「自分でちぎったんだ。そういう仕事なんだ。僕たち天使は魂を迎えに行くことが仕事だけど、その人を天国に案内するには何かを引き換えにしなきゃいけない……」


「羽をちぎって、引き換えに……?」


 信じられないという思いで訊いた昌也に、


「うん、僕は何も持っていない天使だから……。愛も救いも希望も……他の天使たちはそういうものをたくさん持ってるけど、僕は、僕があげられるものは、この皆よりちょっとは立派な羽くらいだから」


 肩を竦めて気まずそうにした天使に、


「馬鹿っ!」


 と怒鳴っていた。

 自分の痛みを考えない天使が腹立たしかった。天使だから痛みはないのかもしれない。


 でも、あの頃の昌也は幼かった。少ない語彙で怒りをぶつけた。


 結果、天使を傷つけた。傷付いて欲しくないという思いとは裏腹に……。




 君を忘れない、と昌也は誓った。


 昌也はこれから素晴らしい人生を生きようとは思っている。

 でもそれは、いつか天使に会った時に今以上に素晴らしい日々を送るためだ。


 幸せはそれを知らないと幸せだと分からない。愛も希望もそうだろう。


 天使が最後にくれた手紙を信じないことにした。


 自分が天使の羽を見て嫌になったということも。

 天使が昌也の『希望』を奪ったということも。


 天使の存在自体が消えてしまってもう会えないってことも。

 天使のことを忘れて生きれば素敵な生きる理由を見つけられるということも。


 天使のお墨付きも。


 ――裏腹だけど、それが昌也に出来る精一杯のつぐないに思えた。





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天使 @kazura1441

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