天使
葛
《前編》
翼の羽ばたきが聞こえて
ベランダから鳩が飛び立っただけだったようだ。
なんだよ、と内心毒づいて、段ボールに引っ越しの荷物を詰める作業を再開する。
大学に受かった時、両親が酷く喜ぶ様子を見て、昌也は申し訳なくて堪らなかった。
大学に入ったら死ぬと決めていた。入学式の次の日に死ぬんだ。
と言っても、志望校じゃなかったからとか、将来に希望が持てないからとか、そういう後ろ向きな理由じゃない。
あの子に会いたいからだ。
淡いブラウンの髪が昌也の脳裏で風に靡いた。
昌也が小学一年生の頃、天使に会った。天使みたいに可愛い子という意味じゃなくて、本物の天使だ。
「人間には僕の姿は見えないはずなんだけど」
口を尖らせてちょっと怒っていた姿が思い浮かぶ。折りたたんだ背中の真っ白な羽も。
引っ越しの準備にひと段落着いて散歩に出た。
ぶらぶらと目的もなく歩くうちに子供の頃よく遊んだ公園に着いていた。
「懐かしいな」
昌也はふっと笑ってブランコに腰掛けた。
三月の日差しは随分と温かくなってきたが、まだ朝の風が冷たい気もする。
死ねば、あの子に、あの天使に会えるんじゃないか。天国に行けなくとも死者の国のようなところがあれば。
会って謝りたい。
生きたい、と思えない。早く自殺したい。
最初にこんな馬鹿な考えを巡らせたのは中学生の頃だった。
それは思春期特有のものだと言い聞かせてきたのだが、受験やらなんやらのストレスを取り払った後も、ずっと付いて回った。
「隣いいかな?」
不意に話し掛けられた声に聞き覚えがあって、昌也は勢い良く立ち上がっていた。
「なんで……」
それ以上の言葉が出ずにしばらく口を噤んだ。ギイギイとブランコが音を立てて揺れた。
そこにはずっと昌也が会いたかった天使がいた。
記憶と変わらない肩までのブラウンの髪がさらりと零れる。西洋系の顔立ち。
記憶の中では当時小学生だった自分と同い年くらいで、今は今の昌也と同じくらいの年齢に見える。
翼はなかった。
「性別不祥なところは、変わってないな……」
言いたいことがあり過ぎて、結局、昌也が呟いたのはその台詞だった。
「ちょっと! 久し振りに会って最初に言うことがそれなの!?」
むうっ、と拗ねた様子が昔の姿と重なった。
「何でいるの?」
昌也は色々と訊きたいことがあったがその一言に集約した。
天使はちょっと悲しそうに俯いた。
「まだ寿命が残ってるのに死のうとしている人がいるらしくて、会いに来たら昌也君だった」
「そっか……。それで君に会えるんだったらもっと早く死のうとすればよかったなぁ」
天使は「はぁ⁉」と呆れた声を出して睨んだ。
「馬鹿なの?」とか何とかもごもご口の中で喋り始めたのを遮って、頭を下げた。
「ごめん、ずっと君に謝りたかったんだ。俺は君が怖かったわけじゃないと思う」
天使は昌也を凝視した。
「じゃあ、何で? あの日、何で僕と目を合わせてくれなかったの……?」
「……分からない」
でも、本当に悪いと思ってる。君がいなくなって寂しかった。
どうか償いをさせてほしい……。
そう続けようと昌也が口を開いた時だった。
「おーい!」
公園の入り口から青年が駆け寄ってきた。高校生だろうなと昌也は予想する。
天使がくるりと振り向くと、ひらりとワンピースの裾が揺れた。
「――え、ええっ⁉」
昌也が驚くのをよそに、青年と天使は会話する。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、昔の友達と偶然会って話してた」
さっきまでシンプルなシャツとズボンだった天使が、一瞬で少女になった。控えめな花柄のワンピースの可憐な女子高生。
っていうか、俺は昔の友達、なのか……。
「あの~、その人は?」
遠慮がちに昌也が口を挟むと、
「うん! 僕の彼氏だよ。これから二人で出かける予定だから」
…………。
「じゃあね! 昌也君」
天使が手を振って、公園を出ていく。
天使と彼氏君は手を繋げそうな微妙な距離を保っている。仲睦まじい高校生カップルそのもの。
昌也は嵐みたいに心がかき乱れたまま、大学の入学式を迎えた。
死ぬ気はなくなっていた。
……まあ別の意味で死にたくなるほどいたたまれなくはなったが。
天使が再び昌也の前に現れたのはおそらく昌也の自殺を止めるためだ。
天使に恋人がいた衝撃は下手に「死なないで」と言われるよりよっぽど死ぬ気がなくなることだった。
天使の思惑は成功したということだろう……。
「はあ……」
昌也はまた溜息を吐いていた。
と、唐突に斜め前に座っていた新入生の一人が振り返った。
「昌也君、大丈夫? 気分悪いの?」
天使だった。今度は真新しいスーツ姿の好青年だ。
「なっ!」
昌也は上げかけた叫びを無理して飲み込む。
「ふふん」と天使がちょっと得意気に笑った。
入学式が終わり数日、天使の姿を探していたのだが、誰に訊いても「そんな新入生はいない」との答えで諦めることにした。
午後、昌也が細道を歩いていた時、後ろからランドセルを背負った少年がトコトコついてきた。
そっか、この時間は小学生の下校時間なんだな。
横目に少年の様子を窺う。
溌溂とした大きな目。ランドセルが黒いし、明らかに男子という服装なので少年だと分かるが、ひょっとすると少女にも見える……。
「……君なんだね、天使」
少年は照れたように頭を掻いた。
はあああ、と息を吐きながら昌也はその場にしゃがみ込んだ。
「ちょっ、昌也君? どうかしたの?」
少年、というか天使は驚いて心配そうに昌也の背に小さな手を添える。
「……どうかしたの、はこっちが訊きたい。何で君は俺の前に現れるの? 自殺を阻止する目的は達成したんだよな……?」
天使は途方に暮れたような寂しくてたまらないような顔をした。
その表情はいつか見た覚えがあった。
「昌也君は僕が側にいたら迷惑かな?」
「そ、んなことはないっ、けど……」
昌也が言い淀んでしまったのは天使と再会した日を思い出したからだ。
償いをさせてほしいという台詞を天使に伝えられなかった。
それを天使が望むかも分からなくて、天使がまだ自分を友達と思ってくれるのかが分からなくて、どういう態度を取ったらいいのか分からない。
「昌也く、……」
昌也に何か話そうとしたらしい天使の言葉が途切れた。
「え?」
隣を見ると天使は忽然といなくなっていた。
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