おさない私はおさない

仲よし子

第1話

 わたしとあなたは赤の他人 背を向け合って愛し合い、そして離れていきましょう

 

 孤高のバンドWの歌詞に高校時代、どれだけ救われたかわからない。

 教室の真ん中に陣取り、一日じゅうどこかの誰かの恋愛話で時間をつぶす「うちら」の集団。かつては私もその一員だった。彼女たちの偏狭な視野はテレビのリアリティーショーの世界と、学校でそれを疑似体験できるある種の階層に限られていて、そうでない者たちには至極冷酷だった。昼休みは保健室に入り浸り、心を許した若い女教師と友達みたいにだべり、授業がつまらないだのここで寝ていたいだの、本当にその場所を必要としている人たちのことなどまるで気に掛ける様子がない、見上げた選民意識の持ち主たちだった。

 私はそんな「うちら」からいちぬけした。Wの歌詞が頭に鳴り響いて、いまこそそのときだと確信した。

 ひとりで昼ごはんを食べられる場所を探すのには苦労したが、たとえじめじめした日陰であろうとも、教室にいるより自然に息ができた。チャイムが鳴る直前に教室に戻ると、「うちら」は相変わらず上級生が付き合っている他校の女の子の話に夢中だった。私が見放されたのではない。私が彼女たちを見放したのだ。

 まもなく、Wは解散した。ボーカルのKは音楽業界から足を洗い、紅一点ギターのSとともにファッションブランドを立ち上げた。KとSは付き合っているともっぱらのうわさだったが、それが証明されたようなものだった。ベースのJは同期デビューのバンドPのサポートに入り、ドラムのMはなんとアイドルのプロデュースに乗り出した。

 解散と聞いても別段驚かなかった。アルバムごとに異なる作風を生み出す彼らは、そのぶれすぎる音楽性によってファンが居つかず、売り上げは低迷していたから、レコード会社との契約が切れるタイミングで決断したのだろう。みじめに業界にぶらさがらないのは彼ららしいと思う。解散に際し、ある音楽ライターはこう書いた。「初期衝動の終焉。彼らに“おじさん”は不可能だ」

 著名人が死ぬと、葬式で泣き叫んだり場合によっては後追い自殺をする人が現れるという。私にはその気持ちがわからない。例えば私にとってW解散は彼らの音楽の死だが、彼らの音楽は日ごと私の耳の奥で鳴り響き、歌詞は一言一句頭の中に入っている。だから私はいつだって実行することができる。ここは私の居場所じゃない、あなたは私にとって必要ではない。そう感じたら、ためらいなく背を向ける。こうして私は彼らなき後の15年を生きてきた。

 私は時折Sのツイッターをのぞく。以前は毎日、暇さえあれば更新がないかチェックしていたのだが、最近KとSのブランドが若い人に人気があるらしく、彼らのバンド時代を知らない人たちによる軽々しいリプライを見て、辟易してしまったのだ。リスペクトしているはずの相手に距離感ゼロで近づく、SNSの作法にはついていけなかった。私など恐れ多くてフォローすらできないというのに。ちなみに15年たってもKとSは結婚していない。

 とにかく、私がその動画に気づいたのは、Wの名前がツイッターのトレンドにのっていたからだ。「W再結成?」のテキストの下のサムネイルを見ると、音楽スタジオらしきところでKとSとMがそれぞれ担当の楽器を手にしていた。Jはいなかった。そういえば、最近Jは何をしているのだろう。解散直後はPのほかにもいろんなバンドに参加していたけれど、最近名前を見ない。そんなことを思いながら、再生ボタンをタップした。

 それはもうひどいものだった。Wの代表曲の階段を駆け上がるようなポップなイントロが、さぐるようにたどたどしく始まったと思ったら、ひっくり返ってのたうち回って、結局、歌の入りまでたどり着かず、Sの「全然だめじゃーん」という声に、メンバーの笑い声が呼応して動画は終わった。私が真っ先に気にしたのは、Wのことを知らない大勢の人にどう受け止められるか、ということだった。中年になってバンドもどきを始めたというただのほほえましい報告になってやしないか。そしてそれはWを毀損することにはならないか。Jがいないのはそれを懸念したからではないか。

 ところがリプ欄を見ると、ちょっと意外な光景が広がっていた。「これってWの曲じゃね?」「マジで再結成するの?」というWの存在を前提として期待を込めたコメントが連なっていたのだ。これはいったいどういう人たちなんだろう。Wを知っている人なんて、クラスに一人もいなかったのに、世の中はこんなにWの話題で盛り上がっている。よくわからないまま、動画はブランドの顧客であるモデルやタレントがリツイートしたことで拡散され、ついにWの名はトレンド入りした。

 調べてみると、Wの楽曲はKとSのブランドをフォローする若い人たちに刺さっているらしく、YouTubeのいわゆる「歌ってみた」系の動画は結構な再生回数をたたきだしていた。Wの曲はポップでカラフルでとっつきやすいのに、リアルタイムで聴いている人が周りにいないのが不思議で仕方なかったが、ようやく時代が追い付いたらしい。

 KとSとMの3人は、YouTubeチャンネルを開設し、練習風景を週に1度のペースでアップし始めた。彼らはめざましいスピードで勘をとりもどしていった。すでに私の血となり肉となったメロディーに、いま改めてイヤホンを通じてコミットすると、自然と涙があふれてきた。あの日、窓辺に置いた小さなラジオの前で、たったひとり、私はWと出会った。突然その瞬間に吸引され、私は情緒不安定な12歳の少女になった。しかし現実はどんどん私を追い越していく。コメント欄に目をやると、「めざせ武道館」の文字。それも一人や二人ではない。共感が膨れ上がって、合言葉を形成し、近い将来に実現してしまいそうだった。ツイッターでは「全人類聞いて!」「今日も推しが世界一」と大げさなコメントで拡散されている。Wを愛するがゆえの熱気なのか、愛することを発信する自己愛の発露なのかもはや判然としないつぶやきをスクロールしながら、心の中で反芻した。ここは私の居場所じゃない、と。私はそっと画面を閉じた。

 次の日曜日、私はSのブランドのショップの前にいた。厳密にはそのはす向かいにあるカフェに。窓際の席から見えるショップの前には金平糖みたいな女の子たちが列を作っている。今日、新しくオープンする店のディレクションを手掛けたSは、開店セレモニーに参加する予定だった。私はジャケットの下にWのライブTシャツを着ている。高校生のころ、彼らの最後のアルバムに封入されていたチラシには、ライブの告知とグッズの通販が案内されていた。地方のいち女子高校生だった私は、東京のライブに一人で行く勇気がなく、でも何か記念に残したくて、SがデザインしたTシャツを一枚だけ購入した。当時はオンラインではなくて、電話で注文する形式だった。結局着る機会はなく、今日のために引っ張り出したそれは少し黄ばんでいて、月日のにおいがしみこんでいた。

 案内を受けて、女の子たちが入場していく。その扉の奥に、Sはいるはずだ。私はふとカフェの店内を見渡した。

 皆、一様に窓の外を見つめていた。この街になじんでいるとは言いがたい、それなりに年をとった集団が、喪に服するかのように沈み込んでいる。私は直感した。彼らは私だ。かつて時代の趨勢の乗れなかったWというバンドを崇拝し、現在では強烈な「推し」文化に圧倒され、それでも無視して去ることができない者たち。彼らはこうして亡霊のように集いながらも言葉の一つも交わすことはない。

 なるほど、こんなところに存在していたのだ。私の「うちら」は。

 実はついさっき、ショップの前を通ってきたのだ。すると、並んでいる彼女たちの一人が、つぶやいた。

「WのラストライブのライブTだ」

 その瞬間、羨望のこもったまなざしにもてあそばれ、いくつかのスマートフォンのカメラがこっそりと私をとらえた。私は内心毒づいた。饒舌な簒奪者たちめ、と。私にとってWは安息の地だった。彼らの音楽は私のささくれだった心を撫で、時に許しを与え、時に鼓舞した。それを、あとからやってきた者たちが踏み荒らし、手あかのついた常套句で飾り立て、担ぎ上げていく。まぶしすぎるスポットライトに目がくらみ、私はぶざまにしりもちをつく。それでも、彼らがしかるべき成功を手にするのなら、私などどうあろうと構わない。今も昔も、私は彼らにとって不要の存在だ。ただ私がいつまでもつかまり立ちを始めた幼子のように彼らを欲しているだけ。私自身が自我を手にして、彼らに寄与することは禁忌であるといっていい。なぜなら彼らに没入することで私は私を忘れたいのだから。与えられることだけを求める傲慢な幼さを私は手放すことができない。それに比べれば、屈託なく語り合い、つながり合い、いま目の前に行列を作れる彼女たちはよほど成熟している。わかっている。それでも――。

 ここは静かだ。凪いでいる。きっと私の愚行も見ていたはずなのに、知らないふりに長けた人々にとって、私は存在しないも同然だ。無視し、無視され、苔むしていく名もなきものの墓。私はそれらを観察し、新たな死者として葬列に臨もうかと思案する。

 コーヒーカップにわずかな痕跡を残して、私は立ち去った。死者の放つ腐臭に耐えられなかったのだ。それを異物と感じ取れてしまうほどに私は死にきれず、日差しのまぶしい往来の彼岸と此岸の間を流れていった。

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