白い少女
早坂慧悟
白い少女
1
大学の友人、木ノ崎が姿を見せなくなったのは、秋の終わり頃だった。
いつもなら試験の準備のため、ノートを貸してくれとせがまれるのだが、今回は何も言ってこない。聞けば、夏の終わりくらいからあまり大学には姿を見せていないらしい。
彼はもともと学業よりもアルバイトに打ち込んでるような男だったので、そんなことは珍しくなかったが、今回みたいに試験の準備をせずにいるのは彼らしくなかった。
木ノ崎はバイトに明け暮れてはいたが、とても計算高い男で、授業に出なくても取れる単位だけは受講していた。そのため、この時期になると授業に出ていない彼は、試験対策のためにノートを借りにくるのだ。そして無事試験が終わると、お礼と称し彼が居酒屋で奢ってくれるのがいつもの習わしだった。
自分はこの夏、彼と居酒屋に行ったときのことを思い出した。
その日、居酒屋に着くと木ノ崎はいきなり女の話をし始めた。
「俺さぁ、この前社会人の合コンパーティに参加したんだよね」
彼によると、そこで出会った5歳年上の女性と仲良くなり、その後も何度か二人だけで会ったらしい。
「俺もさ、学生と付き合うのには、もういい加減飽きたてたんだよね。その点社会人はいいよ、都内のお店も色々知ってるし、常識やマナーもわきまえている。飲食代もすべて向こうの奢りなんだぜ、会うたびにプレゼントや小遣いまでくれて…」
木ノ崎は、タレントのように整えた髪を、軽く撫でながら言った。
「でも、昨晩デートの帰り、いきなり付き合ってくれと告白されてさ、…参ったぜ。もともとそんな気はなかったし、いま俺には彼女がいるだろ?それで断ったんだけど、彼女泣いちゃって、後が大変だったんだぜ」
悪びれる様子もなく、木ノ崎は笑いながらそう言った。そして横を通りかかった店員に、ビールを2つ注文する。
自分はぬるいビールを飲みながら、彼女がいるのに平然と他の女と遊びに行く彼を、冷ややかな目で見つめた。入学以来、女性とあまり縁がなかった自分には、彼をやっかむ気持ちもあった。
自分があきれて何も言わずにいると、木ノ崎はやがて話題を変えた。
「そうだ俺、最近あたらしいバイト始めたんだぜ。」
「とうとう、ホストのバイトでも始めたのか?」
自分はまともに取り合わなかった。
「へへへ馬鹿言え、家庭教師だよ。」
彼が言う。
「家庭教師?」
自分は枝豆をつまみながら聞いた。
「ああ、楽な仕事だぜ。なにしろ中学生の勉強だからな。」
枝豆の塩気が強すぎて自分は咽てしまう。
「碌に大学の講義すら出てないお前に、人様の授業なんて出来るのかよ」
枝豆をビールで流し込みながら、自分は揶揄した。
「言うねぇ。でも、教育は知識じゃないんだぜ、大事なのはハートだよ。」
木ノ崎はニヤニヤしながら自分の胸を指す。
「ハートで試験が通れば誰も苦労しないよ。大丈夫なのかよ」
自分はあきれて物が言えなかった。録に授業にすらでていない女たらしの学生に、まともな家庭教師など務まる筈がない。
「これでもなかなか評判いいんだぜ、ハハハ。おい、そうやってチビチビとビール飲むのやめてくれよ、今日は俺のおごりなんだから。いい加減そのジョッキを空けてくれ、今度は何飲む?お、これ頼もうか。すみません、この『響』の特製ハイボール2つと・・・」
この日は謝礼日でお金の入った木ノ崎は、いつになく上機嫌だった。
なんでも家庭教師の授業には月数回だけ行けば良く、授業がないときも報酬はちゃんと支払われるらしい。そしてなにより彼が強調したのは、報酬の良さだった。依頼主はどこかの有名企業の重役の家庭のようだった。
「まぁ、ちょっと古風で変わった家だけどな。今時、山の中の大邸宅に住んでるんだぜ、駅から遠いし周りに店もない不便なところだよ。金持ちの考えることはよく分からんね。」
「そんな郊外に家があるのか」
「ああ、郊外も郊外、山ん中だよ。そうそう、通うのが大変だろうからって、先方からこれを安く譲ってもらったんだ。」
そう言って彼は車のキーを出した。
「BMW。ひとつ前のグレードだけどね。明日これで大学行くから、帰りに乗せてやるよ」
「その時計も、なんだか高そうなものだな」
彼の、シャツを捲った腕にある外国製らしき時計を見つけて自分は言った。
「ああ、これも先方に買ってもらったんだ。」
「そんなもの買って貰うために、バイトを始めたのかよ」
自分はいぶかしんだ。目の前にいるのは、ちょっと前まで家賃の支払いにすら窮してた男だ。
「まさか。家賃と学費を払うためさ。あとは余ったお金でいい服と靴でも買って、たまには彼女と高級フレンチでブルジョアデートと洒落込もうかな。この車や時計だって早智子がみたらびっくりするぜ、俺にとっては彼女とのデートへの余興みたいなものだよ」
彼には短大生の早智子という彼女がいた。デートの度に、金のない彼に代わっていろいろ支払ってくれるらしい。こんな浮気性の緩い男と良く付き合うものだと感心する。しかし、世の中にはもてる男は存在する。彼は割とハンサムで女にも優しいため、何をしても許されるような雰囲気があった。
目の前で得意げに話す彼の話を聞きながら、結局自分も彼に対して小言の一つも言えなかった。
翌日、木ノ崎は約束通り大学に車で来ると、帰りに自分を乗せて郊外の山まで連れて行った。
彼の運転する車は、険しい山道を力強く駆け上がっていった。郊外を抜け、幾重にも縫うような山道を走り抜けると、突然目の前に大きな邸宅が現れた。周りを漆喰の黒門に囲まれていて、まるで城塞のようだ。
「どうだ、すごい屋敷だろ。」
車を止めると彼は建物を指さし、ここがアルバイト先の邸宅だと言った。車の中で煙草をふかすと、木ノ崎は雇い主について自慢げに話した。
なんでもここは、ある大企業の重役の家らしかった。その重役は主は研究者として成功した後、ここに居を構えて研究などをしながら生活しているらしい。資産は見当つかないほどあって、重役夫婦と若い娘の3人でこの山の中の邸宅でひっそり暮らしている様だった。
木ノ崎はこの家から、都合のつかない日の代役用に大学の知り合いを紹介してほしいと言われていた。その候補として家族に会わせるため、自分をここまで車に乗せてきたようだった。しかし、その話を聞いた自分は家庭教師の仕事もこの家にも興味がなかったので、それを断った。彼は残念がって引き留めたが、自分が早く車を出すように告げると、彼はしぶしぶ元の山道に車を向けると、山を下っていた。
枯葉の舞い散る中、そんなことを思い出しながら自分は山道を歩いていた。紅葉の時期はとっくに過ぎていて、木々はすっかり枯葉色に染まっている。息を切らせながら森の中を歩き続けると、やがて山頂付近に邸宅が見えてきた。そこからさらに歩き、ようやく自分は邸宅の前まで辿り着いた。
邸宅は以前来た時と同じ佇まいをしていた。
それは広い屋敷だった。昔この辺りにあった山城跡に建築したものらしいが、どこか洋館の雰囲気も備えている。
門に掲げた木彫りの表札に『守野』とある、周りは鬱蒼とした雑木林に囲まれていた。
呼び鈴を押すと、年老いた使いが門の小窓を開けた。
使いは古い制服を着ていた。警棒や拳銃入れを腰に巻いていて、ぱっと見警官に見える。全身痩せ細っているため、その物腰は弱々しく腰が曲がっていた。制帽の下から整えてない白髪が無造作に伸びきっていた。使いの男は陰気な顔で睨み付けたまま何も言わなかった。
「わたしは、こちらの家庭教師、木ノ崎くんの知人なんですが。」
使いの男は黙ったままだった。しばらくして門が開くと中に通される。門から屋敷の玄関まで石畳の道が続いていた。庭では使用人の老人たちが薪を割ったり、草を刈ったり、様々な雑役をしていた。なんだか爺さんばかりいる不思議な屋敷だ。
建物の入り口にたどり着くと、端正な着物を着た女性が玄関先に現れた。
突然やってきた自分に、女性は丁寧な応対をした。
「木ノ崎さんのお知り合いの方ですか。どうぞお上がりになってください」
女性は微笑むと、家のなかに入るよう促す。
玄関で靴を脱ぐ、広い廊下が遥か向こうまで広がっていた。
「お車でおいでですか。裏手の駐車場、分かりましたか」
使用人にスリッパを出させながら女性が尋ねる。
「いえ、バスできました。」
「まぁ、バス停からここまで、山道を歩くのが大変だったでしょう。お伝えいただければ、使いの者を寄越させましたのに。」
邸内の長い廊下を歩きながら丁寧な口調で女性は言った。
やがて廊下の先にある応接間に自分を通すと、女性はお茶をを持ってやってきた。自分は、木ノ崎の様子を見に来ただけだったので恐縮したが、母親は、こんな山奥まで来てつかれたでしょう、と言いながらお茶を煎れてくれた。それは台湾の凍頂烏龍茶みたいに黄色がかっており、味も癖が強かった。
「木ノ崎さんには、娘がよくしていただいておりまして……うちの娘、章子(しょうこ)も喜んでいるんですよ。」
女性は笑ってそう話した。
「章子の様子も、以前よりとても良くなりました。以前は部屋に籠って、暗く鬱ぎ込んでることの多かったのです」
「そうですか」
「なにしろ遅くできた子でして、兄妹もおらず学校にも行けない体なんです。木ノ崎さんを毎日、先生、先生と慕っていて、もう木ノ崎先生は章子にはなくてはならない存在です」
こっちが聞いていない家のことまで、母親は臆面無く話す。
「木ノ崎は元気なんですか」
「木ノ崎さんは、ついさっきまで章子の勉強を見てくださっていたから、まだ2階にいるんじゃないかしら。」
部屋を出ると、自分は邸宅の2階に通された。古めかしい木製の階段が踏む度に軋んだ。階段を上りきると、二階フロアのいくつものドアが目に入る。母親はそのうちの一つをノックすると、静かにドアを開けた。
部屋はもともと洋室を改装して作ったのか、天井や窓枠などの調度品はまるで舶来の骨董のように凝っていた。窓には厚いカーテンがかかっており、中は薄暗い。ドアも敷かれた絨毯も外国風で、なんだか高そうな代物である。
しかし、部屋の隅だけは何故か畳敷きになっていて、そこには和風の衝立と布団が垣間見える。誰かが寝ているようだ。布団は長く敷かれ、隣の部屋まで続いていたが、衝立に阻まれその先の様子は分からなかった。長く敷かれた布団のシーツは丸で昔の平安貴族の長い衣裳のように伸びていて、一風変わった寝室だった。自分はそのアンバランスな部屋の様子に少々困惑した。木ノ崎はこの部屋にいるというのか。部屋の中は、畳の和風布団の一角以外、特に何も無くガランとしていた。
「どうぞこちらへ。章子、お客様ですよ」
後から部屋に入ってきた母親はお盆に何かをのせ運びながら、自分を部屋の畳敷きの一角に案内した。
「あの、寝てるんじゃないですか」
自分は深い絨毯を踏みしめながら近づくと、躊躇しながら布団の側で言った。
「いえ、起きてます。章子は日の光が苦手なんで昼間はいつもこうなんですよ」
微笑みながら母親は言う。
「お客様?」
花柄の布団がもぞもぞ動くと、その端から、白い小さな顔が現れた。それがこの邸宅の娘だった。黒色の艶やかな髪をした色白の少女。自分はこの部屋の異様な雰囲気に、一体どんな相手が現れるかと身構えていたので、彼女を見て少し拍子抜けした。そこにいるのは、まだ子供と言ってもいいあどけない顔をした少女だったからだ。年の割には少し落ち着いていて大人びた雰囲気がある。
気のせいか頬が赤らんでいて、上気してるように見えた。
「木ノ崎先生のお知り合いの方よ。章子、起き上がって挨拶なさい」
母親がそう言うと、少女はこっちを見て、上半身を起き上がらせようとした。
しかし一人では起き上がれないのか、少女は背中を母親に支えられながらなんとか半身だけを起き上がらせる。
「こんにちは」
少女はこっちを見てお辞儀をしながらそう言った。
視線を浴びた瞬間、自分の身体は一瞬びくっとなった。脊柱から下半身にかけて電流が走ったような感覚が走る。動悸が高まり体中が熱くなるのを感じた。
「先生には、お世話になっているんです。なんでも先生に教えてもらって。」
照れるように言う。まだあどけなさが残る子供だった。
「自分は木ノ崎と同じ大学の知り合いです。」
「へえー、先生とお友達なんですか?」
「まあそんなものです。彼も自分も同じ故郷の出身で、もともと富山の出なんですよ。」
「富山、それどこ?この前、先生がお話ししてくれた北海道の近くかな」
そう言いながら、艶やかな黒髪の下の整えられた眉毛と大きな瞳で興味を表わすと少女は笑った。やけに大人びた感じがする子だ、まだ中学生なのだろうが、口元の朱に彩られた唇が印象深い。色白のためか、黒髪と朱の唇が一際際立つ。
「いやだわ、この子ったら。学校に行ってないものだから外のことは何も知らないんですよ。今度、木ノ崎先生に教えてもらいましょうね」
母親の言葉に、少女は頷いて笑った。
母親は布団の横に簡易型の小テーブルを広げると、そこにティーポッドを置いた。
「最近では、なかなか起き上がれないものだから、ここで章子に午後のお茶を取らせるんですよ」
そう言いながらテキパキとお茶の準備をする。二人分のティーカップにさっきと同じ黄色いお茶を注ぐと、母親は「木ノ崎先生も、すぐ戻りますからここでお待ちください」と言って部屋を出て行ってしまった。
初対面の少女と二人部屋に取り残され、自分は違和感とも警戒感ともつかない妙な感覚を覚えた。茶を飲んだらすぐにこの部屋からは失礼しよう。
「わたし、あまり外に出たことなくて。だから、この部屋で先生から教わることが世界の全てなんです」
少女はお茶を飲みながら言った。
「失礼だけど、外に出たりすることはできないの?」
少女は静かに頷いた。
「小学校の2年生くらいまでは、みんなと同じように学校に通ってました、でもだんだんと外に出れなくなって・・・」
「それは寂しいね。早く良くなるといいね」
取ってつけたように自分は言う。
「わたしは体は悪くないんです。ただ、わたしの体質が、外の太陽や乾燥した外気に合わなくて・・」
「へえ、・・・」
自分はアルビノという奇病を思い出した。白子症、いわゆる先天性白皮症とか先天性色素欠乏症とかいう奴だ。生まれつきメラニンが欠乏している疾患で、太陽光や外気への耐性が極端にないと聞いたことがある。少女の肌がこんなに白いのもそのためだろう。しかし、それにしては髪や眉毛は真っ黒だし、瞳の色も普通のままだ、自分の知っているアルビノの症例とはだいぶ違う。
少女は少し黙ってから言った。
「学校に通えなくなってからもう何年にもなりますから、先生やお友達の顔ももう忘れてしまいました・・。わたしが学校に行けなくなる最後の日に、お友達みんなでわたしにお別れの歌を歌ってくれたんです。いまでも、その時のことはよく覚えています。」
そう言うと、少女は澄んだ声で「さくら さくら」を口ずさみ始めた。
〽さぁーくぅーらぁー さぁーくぅーらぁー
のぉーやぁーまぁーもぉー さぁーとぉーもぉー
みぃーわぁーたぁーすぅー かぁーぎぃーりぃー
・・・・・・・・・・・・・・・・・
中学生の少女が拙い音調で「さくら さくら」を歌う姿は、どこか滑稽で切なかった。その歌を聞いて、自分は彼女の境遇を悟り悲しさを覚えた。歌が終わると、少女はこっちを見て恥ずかしそうに笑った。
自分は思わず言った。
「また、学校に行けるようになるといいね」
「でも今のわたしには、木ノ崎先生がいるから・・・」
少女は照れるように言った。
「ところで、当の木ノ崎はどこにいるのかな、知ってる?」
自分は部屋を見まわして言う。
「先生は授業が終わったので、部屋を出て行ってしまわれました。隣の寝室にいるんじゃないかしら」
部屋のドアを指して少女は言った。
寝室だって・・?木ノ崎はやはりここに住んでいるのか。泊まり込みをする家庭教師なんて聞いたことなかった。なにやら嫌な予感がする。
「ちょっと彼に会ってきます。お茶、ごちそうさま」
自分はティーカップを小テーブルに置くと少女に告げた。
「そうですか、今度また木ノ崎先生のお話を聞かせてくださいね」
少女は空のティーカップを手にしながら軽くお辞儀をする。テーブルが遠いのか空のカップを胸元に持ったままだ。
「それテーブルにもどしますか?」
体の不自由な少女に気を遣い、自分は尋ねる。
「ありがとう。・・いいですか?」
遠慮がちにぎこちなく少女は言った、心なしか少し疲れているように見える。
自分はカップを受け取るとテーブルの上に置いた。
「少し・・疲れちゃった」
そう言うと少女は、起き上がった上半身を元の布団の中へ戻そうとした。しかし足元が詰まっているのか、なかなかうまく戻れない。それを見て、自分は思わず手を差し伸べた。
「だいじょうぶ?ゆっくりでいいからね」
自分は、さっき母親がしていたように少女の背中を支えると、彼女が布団の中に体を仰向けにもどすのを手伝った。
そのとき支えている自分の手に、彼女の背中から何かひんやりとした熱気が伝わって来るのが分かった。それは腕を通じて瞬く間に体中に伝わる。自分は急激に動悸が高まり体中が熱くなるのを感じた。彼女が布団の上に仰向けに戻ると、自分はあわててその手を離した。彼女の黒髪に微かに体が触れる。その感触は絹糸で出来た繊毛のように繊細なものだった。
「ありがとう・・」
仰向けに戻った彼女は、布団の上で自分を見上げながら静かに言った。自分は身を起こそうとして、彼女に覆いかぶさった姿勢のまま動けなくなった。彼女の艶かしい声と吐息、挿すような視線が自分の行動を阻む。目を背けようにも目の前、寝巻の少し開けた胸元からは彼女の白く透き通った肌が露出しているのが見える。
部屋の薄暗い光に、彼女の肌の白が蛍光色のように輝いている。白い肌の艶めかしさに自分は気が遠くなった。彼女の身体から、目に見えぬ熱気が上がっていた。嗅いだことのない何とも言えない甘い香りが自分の鼻腔に入ってくるのが分かった。ますます動悸が激しくなり欲求を抑えられなくなった。いつしか自分の股間は膨張していた。彼女は自分を、うるんだ瞳でずっと見つめ続けている。
「先生の・・・おともだち・・・・」
彼女は自分の顔に触れようと白い手をこっちに伸ばしてきた。まるで雌カマキリに捕食される雄カマキリが感じるような恍惚感・・・。
自分は愉悦のなかで得体のしれない恐怖を感じて、なんとか体を動かすと逃げるように彼女から離れた。あやうく彼女に抱き着くところだった。
そして、彼女を残して足早にドアに向かうと、自分は逃げるようにその部屋を去った。
部屋を出ると自分は息を整え深呼吸した。外の空気を吸うとさっきまでの火照りや興奮も収まり、下半身の膨張も嘘のように静まっていた。向かいに丁度、寝室らしきドアがあった。 隣の部屋の寝室に、果たして、木ノ崎はいた。
ジャージ姿で、まるでこの家の居候のように静かに座っている。
章子さんの部屋の向かいにこの寝室があるため、彼はそこで寝泊まりをしているようだった。空き缶やコンビニのビ
ニールがあちこちに転がっている。
「どうして、ここに・・・・」
自分の顔を見るなり、驚いた表情で木ノ崎は言った。
「木ノ崎、久しぶりだな。家には帰ってないのか?」
木ノ崎はバツの悪そうにボリボリと顔をかくとポツリと言った。
「いちいち家に帰るのが面倒になって……」
木ノ崎は伸びたあごひげを擦った。
「まるでこの家の書生みたいな生活だな」
自分が皮肉を込めて言うと、彼は神妙な顔になった。
「実は・・・離れられないんだよ」
彼は言った。
「この家から?そんなに居心地がいいのかよ。」
「いやちがう、彼女からだよ」
急に彼は、何かを訴えるような目になる。
自分は彼の言葉に耳を疑った。
彼女って、あの中学生の教え子の事か。それはまずい。
「おい、今のは聞かなかったことにするぜ。いくらなんでも、教え子に手を出すのはどうかしてる、しかも相手は子供じゃないか。」
「ああ・・それはそうなんだが」
しかし木ノ崎は、焦点の定まらない目のまま項垂れると、そのまま押し黙ってしまった。
「しっかりしてくれよ、とにかくみんな心配してるから連絡だけは入れてくれ。実家じゃお前の行方を探してるようだぞ。あと、大学に来ないのは不味いだろ、彼女も泣いてたぞ。ところで、試験はちゃんと受けたのか?」
木ノ崎は項垂れたままだった。
「・・・実家とか試験とか、ここにいるとそんな世間の些細ごとなど、どうでもよくなるんだ、まともに考えられなくなるんだよ。もう俺はここから離れられない・・・」
彼は頭を抱えながら言った。思いのほか彼が思いつめているので、自分は言葉を選んで言った。
「と、とにかく一度、家に帰ろう。それから今後のことを考えよう。第一、いまみたいに教え子の家に泊まり込んでいるなんて聞こえが悪いぞ。あと、携帯の電源はいつでも入れておいて、何かあったら電話連絡すること、わかったね」
自分は木ノ下にそれだけを約束させた。しかし結局彼はこの日、荷物が沢山あるからと言って、自分と一緒にこの邸宅を出なかった。
2
春。虫たちが地中から溢れ蠢き出し、桜の花がようやく咲き始める頃になって、木ノ崎からの連絡が来た。あれ以来、大学にも顔を出さず、電話をかけてもいつも繋がらなかった彼が、この日向こうから電話をかけてきたのだ。
携帯に出ると、彼は切羽詰まった声で「たすけてくれ」と言った。聞くとまだ彼は、あの邸宅にいるらしい。彼は震える声で教え子の少女が大変なことになったとだけ伝えてきた。
あの日以来、彼が邸宅からすでに家に戻ってるものと思っていた自分は、彼がまだそこにいると知り驚いた。そして彼を助けるため急いで邸宅に向かった。
山の中の邸宅を訪問すると、玄関にこの前の母親が同じ着物姿で現れた。
「あら、こんにちは。お久しぶりですね」
「木ノ崎は、まだここにおじゃましているんですか?」
「そのことで、ちょっとお話が……」
「彼から電話があって助けに来たんです、すぐに彼と会わせてください。」
「木ノ崎さんの件については、彼の身の安全のため、すこしお話をさせていただきたいと存じます。」
木ノ崎の身の安全?あの電話はこの親からかけさせられたものなのだろうか。
「わかりました。」
「それでは、夫を呼んでまいります。ちょっとお待ちになってください」
そう言うと母親は、廊下の奥に消えて行ってしまった。
やがて家の奥から母親が戻ると、自分は一階の応接室に通された。
応接室の部屋正面、ソファーに初老の男性が座っていた。学者然として品のよさそうな男だ。背後の書棚には書物がずらりと並んでいる。
自分は出されたお茶を一口だけのんだ。前回にも増してやけに苦いお茶だ。
「どうもはじめまして。わたしは章子の父親です。」
男性から渡された名刺には、「生物学博士 守野卓治」と記されていた。
名刺には、よくCMで目にする大手製薬会社のロゴが印刷されている。その関連会社の肩書が名前の横にいくつも印字されている。
最初に話を始めたのは、章子の父親の方だった。
「時間があまりないので、要点だけを手短にお話します」
応接室で自分に向かい合った父親は静かに話し始めた。
「わたしは、長らく東京のある製薬会社に勤めておりました。社員として最後に赴任したのは隣県にあった登戸の研究所でした。」
話をする父親の横には、不安そうな顔で母親が寄り添っている。
「主にわたしは、昆虫の研究をしていました。さまざまな種類の虫の。新薬開発に繋がる成果を求めて、日々研究をしてました」
「主人は仕事熱心でしたのよ、盆と正月以外ほとんど家にも帰られかったんです。」
母親が自慢げに言う。
「その当時、結婚してもう何年にもなるのに、私たちには子供がいませんでした。先天的に、妻は子を授かりにくい体質だったんです。私には妻にかける言葉もありませんでした。そして悩んだ末、一つの結論が産まれました。自分の研究室の製薬でそれを解決できないものか、秘かに研究することを思い立ったのです。」
マッドサイエンティスト……と言いかけて自分は言葉をのんだ。
「ところで女王蟻を知ってますよね。」
そう言うと父親は書架の引き出しからファイルを取り出し、自分に渡した。
「これはコピーですが、あなたに差し上げます。蟻の特性について綴られているものです。」
自分は渡された資料をパラパラめくった。写真と共に蟻の生態についての解説が所々記されている。父親は話を再開した。
「女王蟻は虫としては長命で、普通に10年以上生きると言われてます、その生涯は巣穴の中で、延々と産卵を繰り返すものです。その産卵システムをご存知ですか?」
自分はなんだか嫌な予感がした。蟻の生体などに興味を持ったことはなかった。
「いえ。存じません」
「女王蟻は営巣前に一度だけ交尾します。そして、その時の精子を体内の袋に保存して、その後、延々と受精と産卵を繰り返すことができるのです。わたしは、この黒蟻の驚異的な繁盛方法に注目しました。そして研究に研究を重ね、とうとう女王蟻特有の産卵能力を人体に誘発する成分を発見したのです。そしてわたしは何年もかけ、女王蟻からこの成分を抽出し続けたのです。そうしてほんの少し製薬のもとが取れました。」
自分は思わず耳を疑った。SFかなにかの話なのだろうか。
「妻はその成分を服用しました。でも、効果はありませんでした。」
結局、失敗したのか。自分はその結末にホッとした。
「次にわたしは……」
父親はさらに話を続けた。
「白蟻に注目しました。白蟻の女王も同じような生態ですが、蟻の女王とは異なる点があります精子を貯蔵する器官、精子嚢を胎内に持たないので、何度も交尾する必要があるのです。こっちの方が、より人間に近いです。」
こんな話が続くことに、自分は耐えられそうになすった。シロアリが人間に近いなど、狂った話でしかない。顔が蒼ざめてくる。
隣にいた母親が話しだした。
「夫は躊躇してたんです。わたしを実験台にしたくない、正式な治験セクションに検証させたいと。でも、それでは何年も時間がかかってしまいます。もう若くはなかったわたしに、出産までの時間は限られてましたから。わたしから、それを飲むことを提案したんです」
なぜか母親は父親を庇うような口調であった。結果として、妊娠ができたのだから良かったではないか、薬事法かなんかに抵触するのを恐れてかばっているのだろうか。
父親は母親の話にしばらく黙っていたが、また話だした。
「そして・・・この白蟻の研究は、前回の研究が基にあったためスムーズに進みました。そして存外早くに、白蟻からの成分抽出に成功しました。この抽出された成分に、開発されたばかりの効果を高める薬を混ぜ合わせて薬を完成させました。数百万という白蟻の女王蟻の犠牲から採れた成分は、ほんの数錠の試薬となりました。」
父親は茶を飲んだ。
「成功したんですか。」
「結果的には・・・。翌年には章子が生まれましたからね」
何故か物が歯に挟まったような言い方で、言葉に抑揚がなかった。
「しかし、わたしが危惧したのは、二回目のシロアリから作った試薬のほうでした。混ぜ合わせた試薬が、その後審査を通らずお蔵入りとなったからです。」
「なぜお蔵入りに?」
父親は唇を噛みしめると言った。
「効能が・・強すぎたからです。」
「強すぎた・・」
「薬が予想よりはるかに効きすてしまった、と言うべきでしょうか。それを知ったのは妻の妊娠後でしたから、もうどうすることもできなかったのです。その後わたしたちは何十万という女王アリを犠牲にした報いを受けねばなりませんでした。」
隣の母親が寄り添うようにしていたが、感極まって言った。
「この人は悪くないんです!みんな私のためにやったことなんです。」
父親は母親を制するように手を前にだすと、話をつづけた。
「妻には・・母体には何の影響もありませんでした。赤ん坊も外見は特に変わりがなく、すこし色が白いくらいでした。」
「生まれた時から白だったんですね」
「あとは、すこし胴が長い子でした」
「それじゃあ実験は成功したということじゃないんですか、別に問題はなさそうですけど」
「章子は赤ん坊の時から、抱いていると桃かなにか花のような甘い香りがする女の子でした。でも不思議なことに妻はいくら抱いてもその香りがわからないというんです・・・。肌も白く透き通って美しく、とてもきれいな女の子でした」
「美人の素質を持って生まれたんですね」
自分は褒めるように言ったが、父親は無関心なまま何も取り合わなかった。
「ちいさい頃は、少し大人びていましたがごく普通の女の子でした。ただ、可愛くて目を引くのか、外に出すと、必ず見ず知らずの男に話しかけられました。それで、幼稚園や学校に行かせる以外はあまり外に出さないようにしてました、誘拐とかされないように。」
自分はその話を黙って聞いていた。
「そして成長が進むと、章子の体が少しおかしいことに気付きました。彼女は奇形だったのです。」
「奇形?」
自分は思わず繰り返して聞いた。
「はい。生まれた時から胴が少し長い子でしたが、それがどんどん伸びていったのです。いまでは自分で立ち上がり、歩くことすら出来ません。」
自分は前に彼女を見た時のことを思い出した。寝室に横たわる彼女の布団は、隣の部屋まで不自然に続いていた。あの布団の下に、彼女の長い下半身がずっと続いていたというのか。
「それは、俄には信じることができませんが。」
父親はフッと自嘲気味に嗤った。
「そうでしょう、無理もありませんね。ただ少し正確に言うと、胴ではありません、成長してるのは彼女の腰の部分。解剖学的に言えば『精子嚢』の機能を準備する器官です。」
自分は驚いて言う。
「精子嚢。それじゃ・・・さっきのシロアリの話じゃないですか。・・・章子さんの体は、一体どうなってしまってるんですか・・・」
父親はそれには答えず、無表情のまま言った。
「白蟻に限らず、女王アリは極度に発達した産卵機構を内包するため、その体の大きさは、通常の働き蟻と比べると巨大です。人間で例えるなら、その大きさはタンクローリに匹敵するくらいです。」
いきなりまた、父親は女王蟻の話を始めた。氷のように感情の無い顔になっていた。
「女王蟻の姿を見たことがありますか?巨大な体に、申し訳程度に頭部と手足がついているだけです。それはとても滑稽で哀れな姿ですよ・・・・何百万もの産卵をするためだけに生まれた身体・・・まさにそれは産卵機械といってもいい、繁殖に特化しただけのひとつの工場です。」
自分はたその話を黙って聞いていた。
「・・・・その点、産まれてきた章子は恵まれてました。胴は長いけれど見た目は綺麗で美しい。頭もちゃんとしていて理知的で優しい子です。普通の女の子となんら変わりませんよ。」
父親は黙って茶を飲むと、自分にも勧めてきた。自分は注いでもらったカップの茶を一気に空けた。
「ところであなたは、前に一度ここにやって来て、章子とお会いになったことがありましたね。」
目元の眼鏡をズリ上げながら、父親は聞いてきた。
「ええ。昨秋の暮、木ノ崎に会いに来た時にお会いしました。」
自分は答えた。
「その時、何か違和感はありませんでしたか・・・・」
「いえ特段。章子さんの体は布団の下に隠れていましたから・・・」
「いえ違います。章子の見た目の事ではないです。あの子の近くにいて、何か体に異変はありませんでしたか」
自分はあの日、章子と会って部屋で感じた身体の異変について思い出した。彼女の近くにいると、身体に少し触れただけで全身の血流が上り極度の興奮状態になってしまった。あの時は、幼い少女相手に性衝動をおぼえた自分を恥じたが、あんな興奮状態に陥ったことはあれが初めてだった。
「なんていうか、体も心も不思議な状態になってしまいました」
「男性として、極度の性的衝動を憶え興奮状態になりませんでしたか」
臆面なく父親ははっきり言い切った。自分は頷くしかなかった。
「お恥ずかしい話、自分はあの時娘さんによこしまな感情を・・」
「このお茶は、それを防止するために飲んでもらいました」
いつもの黄色いお茶を指して、父親は言った。
「これが?」
「性衝動と興奮を抑えるインドのお茶です。通常の人間なら数日間は性衝動が起きないはずです。けれど相手が章子では効果はそれほどではなかったようですね。」
「ここに居ついてしまった木ノ崎についても、原因は章子さんにあるというのですか?」
「正確には章子ではなくて、章子の放つフェロモンにです。考えてみてください、不思議じゃありませんか、なんで彼はここから帰らないのです。あなたのとった行動だって矛盾してます。いくら木ノ崎さんのことが心配だからって、いきなりこの家を訪ねてきますか。なんで見ず知らずのあなたが、わざわざ遠くからバスに乗ってこんな山奥の家まで来るのです。この家に一度も来たことが無いあなたが。まるで何かに呼ばれてるようではありませんか。これは雌のフェロモンにふらふらとおびき出される雄昆虫の行動そのものですよ」
父親のその話に、自分は言葉に詰まる。
確かにそう言われればそうだ。あの時試験を受けていない木ノ崎の心配をしたが、それは自分がわざわざここまで来た理由にはならない。彼がここにいる確証もないのに関わらず、なんで自分はわざわざここを訪ねて来たのだろうか。まるでこの山の中の何かに引き寄せられるがごとく・・・。
「ここは、女王アリの巣穴の中ということですか」
「今回だって、木ノ崎さんはどうしてあなたに電話をしてきたのでしょうか。あなたに電話するよう仕向けたのは、おそらく―」
父親は黙ってしまった。
「章子さんだと言いたいんですか」
「正しくは章子のフェロモンです。もう何年も、当家を訪れた者たちは・・宅配便、配達人、ガスの点検、果ては役所の国勢調査員、警察官に至るまで若い男ばかりでしたが・・みんな章子に会って『ダメ』になってしまいました。それでも誘き寄せられて来るものが次々にいて、後を絶ちません。・・・来るのは決まって精力溢れる若い男ばかり。そして皆、章子に会ってからは、仕事や社会生活が出来なくなり、その後家に帰らずここに居着いてしまいます。」
「でも木ノ崎は、章子さんの勉強を見るため、家庭教師としてここに呼ばれたんじゃありませんか」
「章子の家庭教師は、木ノ崎さんでもう6人目なんです」
「6人目・・」
その言葉に自分はぞっとした。あやうく自分は7人目にされかけるところだったのではないだろうか。
自分は過去の家庭教師の男たちがどんな末路を送ったか、怖くて聞けなかった。あの魂を抜かれかけた状態である木ノ崎の様子を見れば、その結果は自ずと明らかだった。
「いまも私たちは、章子の放つフェロモンによってコントロールされています。私たち親ですら、女王アリである章子の身の世話をする働きアリなんです。木ノ崎さんもあなたも、章子の放つフェロモンにより誘き寄せられた、産卵のために必要な雄アリです。最近、章子の身体が危機を迎えて、ようやく少しコントロールが解けて、こんなことを話せるようになりました。」
「自分は女王アリにおびき寄せられたから、もう抵抗はできないのですか」
「前に来た時に、あなたは章子の放つ強烈なフェロモンに抗うことができました。あんなに近くで肌が触れ合ったのに章子の罠に落ちなかったのは、唯一あなただけです。これほど自制心が強いのなら、あなたはまだ彼を救えるかもしれません・・・」
その話の後、父親と共に木ノ崎がいる2階に向かった。そして、部屋の外に父親を待機させたまま、自分は黄色いお茶をがぶ飲みしてフェロモン対策を取り敢えずすると、これから木ノ崎を救うべく、2階のあの部屋に躍り込む覚悟をを決めた。
全速力で木製階段を駆け上がると、自分は章子さんの部屋に向かった。部屋のドアを力一杯蹴り開ける。
「おい!」
自分は木ノ崎の姿を部屋の中に確認すると、思わず大声で叫んだ。
そこに、以前よりさらにやつれた木ノ崎の姿があった。髪は伸び放題で、髭も剃っていない。目は虚ろで焦点さえ合っていない、完全に精気を抜かれた状態だ。
「木ノ崎、どうして家に帰らなかったんだよ。家から捜索願が出てるかもしれないぞ」
「章子が・・・離してくれないんだ」
泣きそうな顔で木ノ下崎は言う。
「逃げればいいだろ、鍵をかけられて監禁されてるわけでもないし。」
木ノ崎は首を振って言った。
「違うんだ。章子が、とても苦しそうで。俺は彼女を見捨てて逃げることなんてできない」
彼は目が虚ろのまま、しきりに部屋の襖の向こうを心配している。部屋の奥には、前回はなかった襖の仕切りがあった。章子のいる布団の方角だ。気づくと部屋の間取りがこの前とかなり変わっている。部屋全体が大きく改装されており、襖の仕切りが壁一面に巡らされていた。章子の布団はなぜか腰から下の部分が隣の部屋に襖で仕切られている、上半身だけがろ、この部屋に残されている状態だった。襖の向こうの仕切られた空間に何かあるのだろう。襖は閉まっているため、中の様子はよくわからない。
よろよろの木ノ崎と共に布団の上の章子の近くに寄る。
布団の上では、息も絶え絶えに変わり果てた姿の章子が横たわていた。
「もう何日もこんな状態で・・・章子を助けてくれ、頼むよ」
章子はハアハアは荒い息を繰り返していた。熱に魘されているようで、頬は火照っていて、白い顔から首筋にかけていく筋もの汗がしたたり落ちていた。その度毎に木ノ崎は冷やしたタオルで汗を拭きとるが効果はなかった。汗からは何とも言えない甘美な芳香がする。頭がまたこの前と同じようにくらくらし始める。
「医者には連れていかないのか」
自分がそう聞くと、木ノ崎は首を振った。
章子の汗はひどくなる一方で、寝巻も汗を吸い始めていた。
「ちょっと体の汗を拭きとってもらえないか・・」
木ノ崎は真新しいタオルを枕元の洗面桶の氷水にひたすと、絞ったそれを自分に渡す。自分はそれで章子の寝巻を捲りあげ、胸元を拭き始める。白い肌が、玉のように浮かんだ汗を弾いていて、見ただけで若い肌の弾力と温かさが想像できる。汗からは何とも言えない甘い香りが湧き上がってくる。ひどい痛みのためか、章子は喘ぎながら、何度も体をびくんと痙攣させた。そのたびに小ぶりで形のいい胸が、自分の目の前で跳ね上がる。彼女の苦悶に眉を顰める表情は妖美なもので、自分は理性が無くなりつつあった、このままずっと章子の近くで過ごせたら・・・と思い始めた。この苦悶に喘ぐ彼女と共に毎日過ごせたら、どんな官能を感じることが出来るだろう・・・そんな考えが頭に浮かぶ。しかし、自分はさっきここに来る前に親から聞いた話を思い出すと、自分の理性をなんとかつなぎとめた。
「せ、先生、苦しいよ、苦しい。」
「章子!だいじょうぶか?」
「痛いっ、痛! 先生ぇ……たす・け・・て・・」
「章子、章子!」
顔を歪ませ苦しみに耐える章子の姿は、正視できるものではなかった。その苦悶の声のお陰で、自分は理性を取り戻し、章子への劣情を振り払うことが出来た。
木ノ崎は章子の小さな白い手を握りしめながら、ずっと彼女を励ましていたが、彼女の痛みは増す一方のようだった。
父親から章子のその恐ろしい正体について聞いた自分だったが、目の前布団の中で藻掻き苦しんでいるのは、年端のいかぬ幼い少女だった。彼女に罪はない。彼女の体内に残る何十万という女王アリの怨念のフェロモンが、人を狂わせるのだ。そう思うと、彼女に同情を禁じえなかった。
「木ノ崎!ここの父親は製薬会社の人間なんだろ、痛みを緩和する薬くらいないのか」
章子の苦しむ様子を見かねて、自分は木ノ崎に問う。
「どうしょうもないらしい。もう成す術は無いと言われた・・・」
「そんなバカな。自分の子供が苦しんでいるのになんで手を拱いて見てるんだよ。いま部屋のすぐ外にいるから、ちょっと聞いてくるよ。」
こんな状況に至っても、部屋に木ノ崎たちを放置している親たちの無責任ぶりに気付くと、思わず語気が強くなった。
そして、自分が父親を呼びに部屋を出ようとした瞬間、バリバリバリと凄い音と同時に、部屋を二分していた襖が一斉に倒れた。見ると隣の部屋から襖を薙ぎ倒し、巨大太いな白蛇がうねりながらこちらに来るのが見える。
「木ノ崎、逃げろ!」
自分は木ノ崎に声をかけ章子の側から無理やり離れさせると、そのまま一緒に部屋の出口に向かった。
白蛇は部屋中の物を薙ぎ倒しながら、迫ってくる。間一髪で部屋から出ると、自分は振り向いて部屋の様子をうかがった。部屋全体に白く太い物体が溢れつつあった。横にいる木ノ崎はすでに廃人のようだった。白い物体は幾重にも重なりあい、部屋全体に艶やかな白い壁を作っている。よく見ると、それは脈をうち何かを内包している。透明な薄い粘膜に包まれた楕円の無数の球……それが太い白蛇の体内をいったり来たりしている。それをしばらく見ている内、不思議な衝動に囚われた。この艶やかな巨大な白蛇の中に身を投じたらどんな快楽があるだろうか‥その衝動が自分を部屋に突き動かした。意識が遠のいていく……。
そして、白い壁にみたされた部屋に踏み出そうとした瞬間。
「やめなさい!」
後ろから肩を掴まれ自分は正気に戻った。それは章子の父親だった。
「章子はもう助かりません」
そう言って父親は自分たちを部屋から押し戻すと、放心したままの木ノ崎を連れて階段に向かった。邸宅全体にミシミシと不気味な振動が響きわたる。
「もう助かりません、助かりません。」
階段を降りながら、父親は何度も呟いた。
一階に着くと、父親に誘導されてわれわれは応接室の横の部屋に入った。そこは広い饗宴会場だった。
「とりあえずここに避難を。この部屋はコンクリで出来てて特別頑丈なので大丈夫なはずでー」
ドスン!
その時、天井から大きなシャンデリアが落ちてくると、勢いよく目の前の父親の頭を直撃した。父親は一瞬よろめくと、頭部から勢いよく血を吹き出し、その場に倒れこんた。さらにその上に、天井からバラバラと天蓋の破片や材木が落ちてきて、父親の姿は瓦礫の山で見えなくなった。
自分は手を振りかざして瓦礫を払い除けようとしたが、落ちてきた天井の破片や材木から父親を助け出すことが出来なかった。そして天井が崩落すると同時に、部屋の四面でも壁の化粧板や窓ガラスが割れ、破片が砕け散った。部屋中埃が立ち込め暗くなる。この邸宅全体が、もう壊滅の時を迎えたようだった。
天井が完全に抜け落ちた後、上からずるずるずるとあの巨大な白蛇が這い出し、姿を現した。白蛇と共に大量の濁った白い水が上から流れ落ち、床に水が溢れる。白蛇の表面の皮は所々に穴が開いて、ずた袋のように張りがなかった。そしてその穴からは何かがゴロゴロと出てくる。思わず踏みそうになって足元を見ると、それはさなぎの姿をした赤ん坊であった。床にはそんな姿の胎児が無数転がっていて、それに混じって蛹のような物も見られる。
自分は理解した、この白い蛇は章子の腹部だ。部屋に現れた太い白蛇。ここまで追い回されたと思っていたものは、妊娠して伸びきって邸宅中に充満した章子の腹部だったのだ。腹の中にこんなに無数の胎児を抱え、章子はあんなに苦しんでいたのだ。それを見た木ノ崎は、発狂したように何度も章子の名を呼び続けていた。
自分は木ノ崎と共に、床の上の胎児たちを避けながら崩れかかった部屋を出た。天井が壊れた際に章子の腹にも傷がついたのか、白く伸びきった章子の腹はもう動かなかった。薄暗い廊下に出ると、壁も天井も全て崩れていて歩くことは容易ではなかった。その瓦礫と埃の舞う暗闇の中、遠くに光明をあることを見つけ、自分たちはそこからなんとか外に出ることが出来た。
外に出ると、洋館はほぼ潰れていた。
3
守野家の崩壊は、その後大きなニュースにはならなかった。邸宅が崩れた数時間後には、もう邸宅前に製薬会社の黒塗りのバンが何台も停まっていて、社員たちが後片付けを始めていたからだ。社員たちは、重機まで動員して瓦礫の山を片づけた。そして数日後には、邸宅のあった場所はただの更地となり、あの大きな門だけが残された。
人里離れたこの邸宅を、近所の人はどこかの金持ちの別荘と思っていたらしい。館の崩壊も、建物が老朽化で倒れたくらいにしか思ってなく関心を持たなかった。その後、この邸宅跡から大量の胎児の亡骸が見つかったなどというニュースは、とうとう聞くことはなかった。仮に、誰かが意図的に証拠の隠蔽を図ったにしろ、肝心の章子やその家族の消息が分からない以上、詮索をすることは無意味だった。
あの貰った研究ファイルの中に興味深い箇所があった。白蟻の、仲間の死骸を残さず食べ尽くしてしまう習性についてである。もし、あの山全体が白蟻の塚だったとすれば、死体は仲間たちが残さず食べてしまったと考えられたのだ。
邸宅からの脱出後、木ノ崎はしばらく放心状態だったが、数日間静養した後、すぐにまた大学に戻った。進級のために追試を受けねばならなかったのだ。木ノ崎は邸宅であったことについて、その後何も語らなかった。そして先週会った際、ポツリとこう言った。
「もう、自分は女に興味を持てないよ」
それが、消えてしまった章子のことを言ってるのか、女王アリに精気を吸いつくされたことを言っているのか、わからなかったが、彼がその後女性に興味を持たなくなったのは確かだった。章子のあの純粋で無垢な心、美しい黒髪と鮮やかな朱色の唇、そして全身から漂う甘美な匂い・・・あの強烈なフェロモンに晒された後では、人間の雌の魅力など取るに足らないものに感じるだろう。交わった男に不妊という副産物を与えるのは、女王アリとして己の種だけを残すための、正統に進化したメカニズムなのだろうか。
「ねえ、木ノ崎くん見なかった?」
その日、大学食堂に早智子が現れると言った。
短大から駆けつけたのか、息を切らしている。早智子は黒皮のタイトなミニスカートを穿いていた。目の前の高椅子に腰掛けたのでスカートの中が見えやしないかと心配したが気にする素振りもない。
自分は思わず食べかけの骨付きチキンカツカレーの骨を噛みそうになった。
「いや、今日はまだ見てないけど・・・・どこかにいるんじゃないかな」
「そう・・・。昨日から電話が繋がらないのよ」
哀しそうな顔で早智子は言った。そして木ノ崎についてあれこれ聞いてきた。
あんなに長い期間、放置されていたにもかかわらず、早智子は甲斐甲斐しくも、戻ってきた彼のことを世話していた。
早智子の服装は木ノ崎好みのものだった、羽織っている薄手のブラウスは胸元が大きく開いて露出が多い。木ノ下とこれからデートに行く約束でもしてたのかもしれなかった。
早智子は、自分が木ノ崎の居場所について何も知らないのを知ると、そのまま食堂から出て行った。後ろ姿で、彼女の臀部が黒いスカートの中で、歩くたび揺れているのが見える。自分は、彼女と女王アリを頭の中で対比させると、木ノ崎がもう早智子のもとには戻らないであろうと予感した。
その日の夕方、自分は車で久しぶりにあの山に向かった。
郊外の暗い山道を走り続け、辿り着いた時にはもう辺りは真っ暗だった。邸宅の唯一の名残であったあの大きな門も既に取り壊されていて、あたりは一面ただの更地となっていた。周辺は桜の花が満開で、花びらが風に散っている。
主を失った桜の花に、季節外れの寒い風が容赦なく吹きつけ、目の前の「売地」と書かれた立て看板が風に吹かれカラカラと音を立てていた。
しばらく外を眺めていると突然、山頂から猛烈な突風が吹き始めた。森の中からも、カサカサ、モゾモゾ、と大量の虫が蠢くような音が近づいてくる。この山の主たちが自分を迎えにやってきたのかもしれなかった。自分は怖くなって一目散に車のハンドルを切ると急発進して、桜の花びらの舞うなかを逃げるようにその山を後にした。
〽かぁすぅみぃか くぅもぉか あさぁひぃに にぃおぉうぅ
さぁくぅらぁ さぁくぅらぁ はぁなぁざぁかぁりぃ・・・・
山頂から吹く強い風に混ざり、かすかに章子の歌声が聞こえてきた。
自分は章子の在りし日の姿を思い出すと、彼女の人生がなんだか不憫に思えてならなかった。
山を下りてからも風の勢いは増すばかりで、季節外れの冷たい風が吹きつけていた。
自分は車をとめると、あの山を振り返った。見上げると、山頂には桜の木が月に照らされ白く輝いている。
そこに邸宅があったことを知る者は、もう誰もいなかった。
(村田基 作品 改題)
〈終わり〉
白い少女 早坂慧悟 @ked153
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