176.

「忘れ物ってなんですか? 見たところ彩織いおりの荷物は残ってなかったですよ」

「残ってますよ。私も彩織も、お母さんも。心残りがね」


 何を言っているか分からない。そんな表情を浮かべながら、お母さんは私を睨む。


「心残り? そんなの無い。あの子のことは一度たりとも自分の子どもだなんて思ったことは無い。さっきお話したでしょう」

「いいえ。それはおかしいです。すごく、おかしい」


 わざと大袈裟に、声を大にして言葉にする。ここにいないあの子にも、ちゃんと声が届くように。


「おかしいって何。あなたに何が分かるの。私たちのことを何も知らないくせに」

「そりゃあ知りませんよ。一緒に暮らしてるわけでも、家に遊びに行くほどの仲でもないですし」


 ピクリ。お母さんの眉が動いた。


「じゃあ何なの。何が言いたいの」


 最早、苛立ちを隠そうとしない。小刻みに壁を指でトントンと叩く。


「確かに彩織のことを娘と思ったことがないのかもしれない。だけど。血の繋がらない子供を貴女は育てた。高校三年生になるまでずっと。誰にでも出来ることじゃないですよ。娘じゃなくとも大事に想ってたんじゃないですか?」

「なに、を……」

「だって、いつ彩織を放り出してもおかしくない状況だったはずなのに、貴女はそれをしなかった。そうでしょう?」

「しなかったんじゃない……! 出来なかったんだから仕方ないでしょう……!」

「そうですね。貴女には出来なかった。血が繋がらなくとも大事な子供には変わりない。だから放り出したりしなかった」


 だんだんと冷静さを失っていくお母さんとは裏腹に、私の心は波一つない水面のようだった。こんなに取り乱す姿を目の当たりにすると逆に私は落ち着ける。


「そんなこと……!」

「無いって言いきれますか」

「……ッ」


 荒い息を繰り返しながら私を睨みつける。その顔色は青白いような、土色のような。とにかく、尋常じゃないくらいの焦りが見て取れる。


「私は未だに彩織に暴力を振るったことは許してません。一生許せないかもしれない」

「…………」

「だけど彩織はね、一度もお母さんが嫌いって言わなかったんですよ」

「…………え?」


 彩織の気持ちに全く気付いていなかったようで、目を見開いたまま固まってしまっている。


「貴女はどうですか」

「…………」


 短く問いかけると再び眉間に皺を寄せて、考え込んでしまった。


「彩織のことを娘と思ったことなんて無いって言いましたよね。でも嫌いとは言いませんでした」

「…………嫌いだとは、思わないけど」


 ようやく言葉を引き出せてホッとする。ここで嫌いだと言い切られては打つ手なしだった。


「苦しかったんですよね、お母さんも」

「…………なに、今さら」

「自分の子供じゃない女の子とずっと二人で。自分一人ならまだしも、子どもを養うのは楽じゃない。お金を稼ぐのがどんなに大変かは……分かっているつもりです」

「…………」

「だから……ありがとう」

「え……?」

「彩織を育ててくれて。感謝してます。彩織もきっと」

「そんなわけ、ないじゃない……。嫌いだと口にしなくても私のことをどう思ってるかなんて分かる。今までたくさん殴って、蹴とばして。きっと憎くて、殺したいって思ってるわ」


 そんなことがあるはずがない。彩織はただ愛されたかっただけなんだ、このお母さんに。


「彩織の気持ちは彩織にしか分かりませんよ」

「分かるわよ! あの子は絶対、私のことを——」



 ガチャ……。

 控えめな扉を開ける音。もちろんここに来るのは一人しかいない。



「お母さん……!」


 実に良いタイミングで彩織が駆け込んできた。少し大きめの声を出していた甲斐があったな。


「……もうここには戻らないんじゃなかったの?」

「さっきはそう言った、けど……。でも……!」


 どうやって気持ちを伝えたものか。握ったり、開いたり。彩織の手が忙しなく動いている。


「彩織はお母さんのこと、嫌い?」


 彩織の隣に立ち、投げかける。本当は二人だけで話して欲しいけど、きっとこのままだと話し合いは平行線だ。


「嫌いじゃないよ……!」

「どう、して……? ずっと、痛かったでしょう……?」

「痛かったけど、お母さんも痛そうだったから。私を見るお母さんの目がいつも苦しそうだった。それを見たら何も言えなかったよ」

「彩織……」


 一歩ずつゆっくりとお母さんに近付き、その手を握った。大事そうに両手で包み込んで、一つずつ確かめるように話し始める。


「嫌いなんて思ったことない。お母さんは私のことが嫌いかもしれないけど、私は違うよ。ちゃんと学校に行かせてくれたことも、育ててくれたことにも感謝してる。私はね、もっとお母さんとお話ししたり、お出かけしたり。そういうことがしたかったんだよ……!」


 ようやく、だ。彩織がずっと心に秘めていた思いをお母さんに明かした。次は彩織への気持ちを聞く番だ。


「…………」

「お母さんは私のことをどう思ってるの。同じ部屋に居たくないくらい、嫌い?」

「……嫌いじゃ、ないわ」

「じゃあ、好き?」

「…………」


 返事のないお母さんを見て彩織の眉はだんだんと八の字になっていく。

 ……こういう積み重ねのせいで、この二人の溝がどんどん深まってしまったんだろう。

 私だって自分の気持ちを言葉にするのは苦手だ。だけど人間同士、言葉なくして伝わらない思いもある。


「……答えてよ、お母さん」

「…………好きかどうかは、分からない。だけど同じ部屋に居たくないなんて思ったことないから。それは本当よ」


 信じられないかもしれないけど、とお母さんは自嘲気味に笑う。


「信じるよ。私のお母さんの言うことだもん」


 彩織は事も無げに言ってみせる。その言葉に迷いは一切ない。


「彩織はまだ、私のことをお母さんって……呼んでくれるの?」

「当たり前だよ。私のお母さんは一人だけ。他にそう呼ぶ人なんていないよ」

「あんなに殴ったり、蹴ったりしたのに?」

「お母さんが私に暴力を振るう時はお酒を飲んだ後か彼氏に振られた後だったよね。そうじゃない時に殴られた時なんて一度もなかったよ」


 どんなにお母さんが否定しようとしても彩織はそれを許さない。一つ一つ言葉を飲み込み、包み込んでいく。

 この子はやっぱり優しい。こういう子だからこそ私は……。


「お母さん。私はこの家を出る。でもそれはお母さんから逃げるためじゃない。私は羚ちゃんが好きだから、ずっと一緒にいたいからここを出る。許してくれる?」

「……ええ。好きにしなさい」

「家出じゃないからたまに帰ってくるよ。その時はちゃんと部屋に入れてくれる?」

「……ええ」


 ……もう心配なさそうだ。私がここにいても出来ることはない。むしろ邪魔だろう。二人に気付かれることなく、そっと部屋を出た。

 自分の部屋に戻ってからも微かに声が聞こえる。楽しそうな二人の声が。

 二度と彩織の泣き声、お母さんの怒鳴り声が聞こえることはない。もう、あの二人は大丈夫だ。

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