175.

 すっかり泣き疲れて彩織いおりは眠ってしまった。そっと抱きかかえて、ベッドの上に寝かせる。頬を撫でるとくぐもった声が聞こえた。


「……んん…………んぅ……」

「彩織、ごめんね。ちょっとだけ出かけてくるよ」


 おでこにキスを一つ落とし、部屋を後にする。

 こんな夜は自炊する気にもなれない。コンビニで手早く済ませてしまおう。


 財布を片手に夜道を歩く。

 そう大して遅い時間ではないけれど、すれ違う人は誰もいない。まるで誰もいない世界。無人の街にいるみたいだ。




「いっらしゃいませぇ」


 コンビニに入ってしまえば、そんな幻想はすぐにかき消される。無人の街など存在しない。灯りの数だけ人がいるのだ、この街に。


「…………」


 おにぎりとサラダ。あとはスープでも買っておけば良いか。目先の棚から適当に選び取る。お湯を入れて数分待つだけのインスタントスープだ。

 ああ、それと。明日の朝ごはんもついでに買っておこう。

 後ろを振り向くとすぐにパンコーナーが目に入った。菓子パン……彩織はどういうのが好きなのかな。おにぎりの具材は梅が好きって言ってたし、案外渋いものが好きだったりするかもしれないな。

 うんうんと唸りながらパンコーナーをぐるりと回る。好きそうなものを選ぶか、無難に食パンを買うか。うーん、どうしようかな。


「こちらのパンは如何でしょうか。新商品なんですよ」

「へえ……」


 品出しに来た店員のおばさんがにこにこと声をかけてきた。ここのコンビニには何度も来ているけど、こうやって声をかけられたのは初めてだ。


「ああ、すみません。つい声をかけてしまいました」

「いえ。ありがとうございます」


 あらやだ、とでも言い出しそうな身振り手振りでおばさんは話しかけてくる。


「いやぁね? 私、ここで四年近くパートしてるんだけど。お姉さん、よくこのお店にいらっしゃるでしょう? 勝手に知り合いみたいな気持ちになっちゃって」

「そうなんですか……」

「ついつい思っちゃうんですよ、大きくなったなぁって。ここ最近は二人分を買われているみたいですし。あの子も大人になったんだなぁって。勝手に親目線で見ちゃってました」


 私のカゴの中身を見ながら、おばさんは嬉しそうに微笑んだ。自分の娘を見るかのような優しい笑み。ただの他人なのにこの人はどうしてこういう表情が出来るんだろう。


「……あの。聞いても良いですか」

「はい、はい。なんでしょう?」

「私は確かにこのお店によく来るけど、ただのお客じゃないですか。どうしてそんな優しい表情が出来るんですか?」


 きょとん。何を聞かれているのか理解出来ない。おばさんは一瞬だけそんな表情を浮かべたが、またすぐに優しい表情に戻る。


「そんな大層な理由はありませんよ。ただ、いつも見かけるあの子が大人になって成長していく。見ているだけで微笑ましいじゃないですか。それだけです」


 おばさんの言葉は引っ掛かることなく私の心に響いた。そこには偽善も欺瞞もない。あるのはおばさんの優しい心だけ。

 きっと、そうなんだ。他人に優しく出来るのは偽善だけじゃない。本当に悪人ならそもそも面倒なんか見るもんか。


「……ありがとう、ございます」

「いえいえ。ちゃんと答えになってましたかね?」

「はい。とても」

「高木さーん! 品出しは良いから一旦レジ入って!」

「はーい。ごめんなさいね、長々とお話してしまって」

「いえ。こちらこそ。突拍子の無いことを聞いてしまって……」


 挨拶もそこそこに、おばさんはレジへと駆けていく。目を向けるとレジには長蛇の列が出来ていた。


「…………」


 それが分かれば後は本人に直接聞くだけだ。幸い時刻はまだ八時前。今から会計をして、早歩きで帰れば出勤まで十分間に合うだろう。

 おばさんがおすすめしてくれたパンをカゴに入れた。もちろん、私と彩織の二人分。明日の朝ごはんは決まった。後はレジで会計を——









「あ。おかえり、羚ちゃん」


 ついさっき起きたばかりのようで彩織はベッドの上でぼんやりとしていた。


「コンビニでおにぎり買ってきた。あとサラダとスープも。ここに置いておくから先に食べといて」

「え。羚ちゃんは? どこか行くの?」

「うん。ちょっとね。すぐ戻るよ」


 レジ袋を彩織に預け、すぐさま玄関を閉めた。








 さっきとは比べ物にならない緊張感が私を襲う。何を言われるか、どんな顔をされるか分かったもんじゃない。あんな捨て台詞を残して立ち去ってしまったんだ。顔を合わせれば嫌味の一つや二つは当然だろう。

 だけど。ここで話をしないときっと後悔する。彩織も私も。そして、あの人も。


「…………ふぅ」


 大きく息を吸い、吐き出す。

 もう扉の向こうから声は聞こえない。さっきの男は帰ったのだろう。チャンスは、今しかない。



「……はい」


 震える手でインターフォンを鳴らすと少し不機嫌そうな声が聞こえた。


「藤代です」

「……まだなにか? 彩織が忘れ物でも?」

「忘れ物……確かに、忘れ物かもしれません」

「……はぁ?」


 私の曖昧な言い方にさらに不機嫌さが増す。……ここで用件を話すわけにはいかない。キチンと答えてもらいたいから。顔を合わせて話がしたい。


「すぐ済みますから入れてください」

「明日じゃ駄目なんですか?」

「今じゃないと駄目です……!」

「…………はぁ」


 仕方ないとため息を吐いた後、すぐに足音が聞こえてきた。良かった。これで話が出来る。


「……どうぞ」

「お邪魔します」


 さっきとは違う。確固たる確信と思いを持って再びお母さんと対峙する――

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