173.

「そんな偽善だけで生きていけるわけないでしょう?」


 どこまでも冷めきった態度で私の考えを一刀両断する。好きな人のために行動したいと思うことが偽善だと言うのだ、この人は。

 どうしてそんな考えを持っているのか。それを理解するためには、私はこの人のことを知らなさすぎる。


「なんで……どうして、偽善だなんて言うんですか」

「だって人間は損得勘定で生きているもの。得をしないことなんて誰もやらないし、意味も無いでしょう?」


 そんなことはない。少なくとも私は自分が得するから彩織いおりに優しくしているつもりなんて、ない……!


「私はそんなつもりで、彩織と関わってるわけじゃない……! 貴女みたいに彩織のことを蔑ろにはしない!」


 我慢出来ず、思ったままにぶちまけた。こんなに大きな声を出したのはいつ振りだろうか。

 それが思いつかない程度には私は温厚な性格をしているつもりだ。人前で怒鳴ることなんて滅多に無い。



「そう。分かった」


 だんだんヒートアップしていく私とは対照的に彩織のお母さんは冷静だ。お金を受け取らないと分かるとすぐにクローゼットの中に引っ込めた。

 喉元まで出かかっているこの感情の行き場がない。喉に突っかかって気持ち悪い。


「……分からない。全然分からない、です」

「なにが?」

「貴女が何を考えているのか私には分からない。だから、聞きます。単刀直入に、端的に。どうして貴女は彩織を蔑ろにするの。……ちゃんと、答えてください」

「…………」


 これを聞き出せないうちは帰るつもりはない。

 子どもを虐待する親の気持ちなんて知りたいとは思わないけど、彩織のことなら別だ。

 さっきは頭にきてあんなに怒っていた彩織だったけど、それは愛して欲しいからこその怒り。

 自分を愛して欲しいのに素っ気ない態度を取られたからこそ彩織は怒っているんだ。

 それに気づいているのか知らないけど、私からすればわざと素っ気ない態度を取っていたようにも見えた。

 だから知りたい。彩織とお母さん。この二人の間に何故こんなに深い溝が出来てしまったのか。




「…………あの子は、彩織は私の子どもじゃない」

「……ッ!」

「血なんか繋がっていない」


 思いもよらぬ返答に言葉が詰まる。

 だって、そんな。彩織も私も、血が繋がっていないだなんて思うはずもない。


「どういう、こと……ですか」

「言葉の通り。あの子は私が産んだ子じゃない。前の夫の連れ子よ」

「じゃあ、そのお父さんはどこに?」

「知らない。十年以上前に別れて、それきり。……全く。子どもだけ置いて逃げるなんて迷惑な話よ」


 吐き捨てるようにそう言うとお義母さんは背を向けた。これ以上語ることは何もない。それを暗に示しているようだ。


「まだ話は終わってない……!」

「終わりよ。貴女が彩織の面倒を見る。そう決まったでしょう? 他にまだ聞きたいことが?」

「彩織の本当のお母さんとお父さんの名前、今どこにいるのか。知っていること全部教えてください!」


 仕方なさそうに肩を竦めるとお義母さんはもう一度茶色い封筒を取り出した。さっきとは違い、かなり薄い。


「父親は知らない。さっきも言ったけど十年以上前から連絡を取っていない。母親は……ここ」


 渡された茶封筒の中には一枚の用紙が入っていた。用紙というより、ただのメモ書き。

 随分急いでメモしたせいか、字は乱れ、所々インクが滲んでいる。これは……どこかの住所? どこだ、ここ……。

 急いでスマホを取り出し、マップを開く。

 メモの通りに住所を打ち込み、検索を——



「……う、そ」

「それを彩織に言うかどうかは任せる。私は……高校を卒業したタイミングで話すつもりだったけど、もうあの子はここに帰ってこないし。その役目は藤代ふじしろさんに任せるわ」

「…………」


 私のスマホに表示されたのは、墓地。ここからそう遠くない場所だ。車で十分とかからない。

 つまり、彩織の本当のお母さんは…………。


「もういいでしょ。話すことは何もない。悪いけど、この後は来客予定があるの。帰ってくれる?」

「…………」


 呆然と立ち尽くす私に追い打ちをかけるように出て行けと言う。

 こんな気持ちで帰ってどうしろって言うんだ。どんな顔をして彩織と話せば良いのか分からない。

 何より、こんな重要な話を私が彩織に……? 本来であれば親子で話すべき内容なのに。


「……貴女にとって彩織はなんだったんですか」

「前の夫の置き土産、ね」

「……可愛いって。自分の子供だって思ったことは無いんですか」

「無いわ。一度だって思ったことがない。邪魔なだけ。私はあの子がいなければもっと早く再婚出来たのよ」


 それを聞いてこの人に期待することは止めた。もう、駄目だ。この人と一緒に居ても彩織は幸せになれない。そればかりか不幸になる。


「……もういいです。これ以上聞いても無駄だ」


 ギリ、と強く奥歯を噛みながら睨みつけた。

 こんなに腹が立って、手が出そうになっているのは初めてだ。今すぐにでも殴りつけてやりたい。

 ぐつぐつとお腹の底で湧き上がる感情を抑え込み、なんとか冷静に話しかける。



「……前に階段ですれ違った時、彩織と顔が似てるなと思ったんです」

「なんの話?」

「でも、今日会ってみたら……全然似てませんね。彩織はこんな醜い顔をしてない」

「な……!」


 醜い。それがどれだけ屈辱的な言葉だったか。一瞬にして歪んだ表情が全てを物語っていた。

 顔を真っ赤にして口をパクパクと動かしている。……全く、醜い女だ。


「もう貴女には何も頼らない。何も期待しない。彩織は、私が貰う」

「…………」

「彩織に関わらないでください。彩織を傷つけないでください。もう二度と、彩織の目の前に現れないでください」

「言われなくても……!」


 これ以上話していると収拾がつかなくなりそうだ。

 お義母さんに背を向け、今度こそ玄関へと向かう。見送りはない。部屋の奥で座ったままこちらを睨んでいる。

 私のことが憎いのだろう。嫌いだろう。だけどそんなことはどうだって良い。もう二度と関わることは無いのだから。

 お邪魔しました、と声をかけ扉を閉める。

 すぐに自分の部屋に戻る気にもなれず、大きく息を吐いた。

 こんな時は煙草の一本でも欲しくなるものだ。随分昔に楓さんから貰って吸ったことがあるけど、美味しいなんてお世辞にも言えなかった。

 だけど、このくそったれな気分にはちょうどいい。肺を汚してでも吸いたくなる。





 ぼんやりと手すりに寄りかかっていると足音が聞こえた。ズシンズシンと、重音が聞こえる。きっと男の人の足音だ。

 ちらりと視線を向けるとスーツを着たガタイの良い男。ネクタイを緩めながらこちらへと歩いてくる。

 なんとなく気まずくなって、背を向けた。足音はどんどん近づき、扉の開く音が聞こえる。

 パタン。ようやく男がいなくなり振り返ると、さっきまで私がいた部屋の玄関が閉まったところだった。

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