172.

「好きにすれば」


 私たちの経緯を聞いて、彩織いおりのお母さんは開口一番そう言った。


「え……今、なんて……?」

「二回も言わせないで。好きにしろって言ったの」

「どうして……」


 掠れた声で彩織は何度も繰り返す。どうして、どうしてって。

 呼吸は途切れ途切れに。息は荒く。真横に立っている私が分かるくらい、今の彩織は尋常じゃない。

 想定していた反応とまるで違う。彩織がこの家を出て行くことに対して何も感じていない。それがすぐに分かってしまうほど、彩織のお母さんの反応は淡泊なものだった。


「……良いの? 私がここを出て行っても」

「別に。アンタだってここに住み続けるのが嫌なんでしょう? 将来的にここを出るつもりなら、今出て行ったって何も変わらないじゃない」

「……ッ!」


 彩織のお母さんの言い分は何も間違っていない。悲しいくらいに合理的で残酷だ。 

 それが分かるからこそ私も彩織も何も言い返せないでいる。


「……もういい。出て行く」

「だからさっきからそう言ってるでしょうに。同じことを何回も言いたくないわ」

「…………」


 彩織は無言で立ち上がり、自分の荷物をまとめ始める。制服も学校鞄も。教科書も漫画も。手あたり次第、何もかもを箱に詰め始めた。

 手伝うべきかと考えたが、それも杞憂に終わる。彩織の荷物はたった一箱のダンボールに詰め込まれてしまったのだ。

 それを持ち出せばこの部屋から彩織の痕跡が消える。その事実は彩織のお母さんの言い分よりも淡泊で寂しい。


れいちゃん。行こ。もう、ここには帰らない」


 お母さんの顔を一度も見ることなく彩織は部屋から出ようとする。今、呼びかけても振り返ることはないだろう。

 二度三度、彩織とお母さんを見比べたがその溝は埋まらない。第三者である私の言葉では埋まらないことが分かってしまった。


「……あの」


 だけど、一言だけ。彩織のお母さんに今言っておかないと後悔しそうだから言っておく。


「返せと言われても返しませんよ、彩織のこと」

「…………」


 ここまで言ってもお母さんの表情は変わらない。ただ静かに前を見据えているだけ。本当に彩織に関心が無いんだ、この人は。

 その煮え切らない態度を見ていると頭の奥がチリチリと焼け焦げそうになる。

 どうして母親なのにもっと子どもに愛情を注いであげられないのか。どうしてそんなに素っ気ない態度を取るのか。言いたいことはたくさんある。

 何より。こんなどこの馬の骨とも分からない自分に、簡単に彩織を預けるなんて。


「もういいよ、羚ちゃん。その人、何回も同じことは言われたくないみたい」


 振り向くと既に彩織は靴を履き替えようとしていた。私が後を追えばすぐにでもここを出て行くだろう。

 何度か彩織のお母さんの表情を窺ったが心が読めない。彩織がしびれを切らして早く行こうと言っている。

 仕方ない、か……。

 彩織に続いて、玄関へと歩き出す——




「……藤代ふじしろさん、だっけ? ちょっと待って」


 部屋を出ようとした瞬間、彩織のお母さんが呼び止めた。


「なに急に。さっきまで一切興味なさそうだったのに! なんで急に羚ちゃんに話しかけるの!」

「彩織、いいから。……なんですか?」

「保険証とか病院の診察券とか。そういうの渡すからちょっと待って」


 そう言ってお母さんは私たちに背を向けた。

 だけど後ろを向く直前、目で合図したのを私は見逃さなかった。今の合図は……二人で話したいってこと?

 何を話したいのか分からないが、今の興奮した状態の彩織に一緒に居てもらうメリットはなさそうだ。先に帰ってもらおう。


「彩織。先に帰ってて」

「え、なんで」

「カードを預かるだけだから、すぐに私も部屋に戻るよ。お母さん、探すのに手間取ってるみたいだし、さ……」


 ちらりと視線を向けると未だ引き出しをガサゴソと漁っている。それを見た彩織は嘆息し、了承してくれた。


「分かった。先に部屋に戻ってるよ。すぐに来てね」

「うん。ダンボールの中身の整理でもしてて」


 小さく音を立てて玄関が閉まった。これでここにいるのは私たち二人だけ。

 さて……。



「それで。今度こそなんですか、話って」

「ああ、うん。気遣いありがとう。先にこれ渡しとく」

「後で彩織に渡しておきます」


 さっきまでガサゴソしていたのが嘘のようにすんなりとカード類を手渡された。ご丁寧にカード入れに入っている。普段からきちんと管理されている証拠だ。


「それで、私になんの話を——」

「そう急かさないで。すぐに終わる話だから」


 立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。中から取り出されたのは茶色い封筒。その中身は——


「……ッ!」

「これも。渡しておく」

「いりません! 困ります、そういうの……!」


 茶色い封筒から出てきたのは、現金。見た限り、百万円が封筒に入っている。

 札束ほど金額が分かりやすいものはない。一束でぴったり百万円。一枚でもお札を抜き取ると見た目や手触りで分かる。

 だからこれは間違いなく、百万円の札束だ。


「卒業したらあの子も就職してお金を稼ぐだろうけど、これはそれまでの間のお金。足りなかったら言って」

「いりません!」

「どうして? 自分のお金だけであの子の面倒を見るつもり? ただの他人なのにどうしてそこまで出来るの?」


 彩織のお母さんはまるで理解出来ないといった表情で私を見る。人のために、お金以外の目的で動こうとしているのがそんなに不思議なのか。

 ……その考えしか思い浮かばないのはすごく、寂しくて悲しいことだと思う。



「……好きだから。好きだから彩織のためになることはなんでもしてあげたい。あの子がやってみたいと願うならなんだって手伝いたい。ただ、それだけです。貴女は……お義母さんはそうじゃないんですか?」

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