174.
「ただいま」
幾分か気分も落ち着いて、ようやく自分の部屋に戻ってきた。玄関を開けると部屋の中は真っ暗で一つも灯りが点いていない。まるで誰もいない部屋に帰ってきたみたいだ。
「…………」
ベッドの前には膝を抱き、蹲る影が一人。
「
肩に触れようとしたら静かに彩織が片手でそれを制した。今はそっとしておいてほしい。言葉が無くともそれが分かった。
だけど放っておく気にもなれず、静かに隣に座った。声をかけることも、肩を抱くこともせず。ただ静かに隣にいる。
今はこれでいい。きっと私が同じ立場ならこうして欲しいって思う。
どれだけ一人になりたくても、私たちは決して独りになりたいわけじゃない。独りにしちゃいけないんだ。言葉がなくとも側に居るだけで救われることだってあるんだから。
彩織の隣に座って、どれだけの時間が経ったのだろうか。三十分かもしれないし、もしかしたら一時間以上経っているのかもしれない。
だけど、違うことが一つだけ。
さっきまでは手で触れることすら許してくれなかったのに、今では私の胸元に顔を
そのぴったりとくっついた小さな体は震え、時折啜り泣く声を漏らしている。
「……う……うう…………」
「…………」
お義母さんに向かって声を荒げていた彩織はもうどこにもいない。寂しくて、辛くて。独りになりたくないと涙を流している女の子が一人いるだけだ。
「……お母さんが」
「うん」
「あんなに私に興味がないなんて、思わなかった、から……」
「……うん」
「辛いよ……」
「…………」
ぐしゃり。私の服を握りしめ、彩織は大粒の涙を流した。雨の中にいるように私の服は水浸し。天気予報は大外れだ。
「……私、聞いちゃったの」
「なにを?」
「私は……私たちは、本当の親子じゃなかったんだね」
「……ッ!」
「盗み聞きするつもりはなかったよ。でも、この部屋に居たら声が聞こえて……」
まさかあの会話が聞かれていたなんて。
思わず舌打ちしてしまいそうになる。そういえばこのアパートは壁が薄いんだった。だとすると、さっきの私とお義母さんの会話は全て筒抜けだったに違いない。
「本当の親子じゃないのに一緒に暮らしてたなんて……ドラマじゃないんだから。お母さんだと思ってた人がお母さんじゃなかったんだよ? こんなのってないよ……」
「確かに血は繋がってないけど……でも……」
なんとか弁明しようと口を開いたが、駄目だった。
何度思い返しても腹が立つし、私はあのお義母さんを許せそうにない。血が繋がっていないからといって、暴力を振るっていいわけがない。
だけど。血が繋がっていないのにも関わらず、彩織が十八歳になるまで面倒を見てくれた。その事実だけは感謝しなくちゃいけないのかもしれない。いつ彩織を見捨ててもおかしくない状況だったんだから。
結局のところあの人も私と同じ、他人の子供の面倒を見る
「……もう、いいの」
「何がいいの」
「どれだけ殴られても嫌いになれなかった。私にとってたった一人のお母さんだから。だけど……お母さんにとってはそうじゃなかった。ただ、それだけの話だよ」
吐き捨てるように言い終えると彩織は、より一層強く私の胸元に顔を押し当てた。背に回した両手は微かに震えている。
「…………」
なんて声をかけたら良いものか。どうしても言葉が出てこない。思いついた言葉はどれも安っぽく、彩織の慰めになるとは到底思えない。
それならば何も言わないほうが良い。黙って頭を撫でることしか出来そうにない。
「……
「なに?」
「一個だけ。一個だけで良いから、私のお願い聞いてほしい」
「なんでも言って」
一個と言わず、いくらでも。彩織の涙が止まるなら私はなんだってするつもりだ。
「私のこと、抱いて……!」
「……ッ」
「全部どうでもいいって思えるくらい、グチャグチャにして」
子どもに、こんなことを言わせるなんて……。
こうして抱き締めていなければすぐにでも服を脱ぎだす。それが分かってしまうほど、今の彩織の表情は鬼気迫るものがある。
「……駄目、だよ」
「どうして」
「……高校を卒業するまでは手を出さないって言ったでしょ」
「やだ。今がいい。抱いて」
顔を近づけ、甘い言葉と共にキスを強請る。
私は——
「……なんで」
「シないよ」
初めて、彩織を拒んだ。両手を押し出し、明確に意思表示をする。
「なんで。どうして……!」
「好きだから。好きだからシない。一時の感情に流されても良いことなんかないよ」
あの時の私に似ている。
全てが嫌になって、自暴自棄になって。そんな中で手を差し伸べてくれたのは楓さんだけ。今の彩織と同じように体を差し出した。
今なら分かる。あの時の私は楓さんの家に泊まるべきじゃなかった。その日限りの感情に流されるべきではなかったんだ。
「おかしいよ! 好きなのにシないなんて! 私は良いって言ってるのに!」
「おかしくないよ。私は彩織を大事にしたいだけ」
埒が明かない。こうなってしまっては彩織は頑なだし、私も譲る気はない。
「羚ちゃん、本当に私のこと好き?」
「好きだよ」
「羚ちゃんは優しいから。私に合わせて好きだって言ってくれてるだけじゃないの?」
「そんなことない。彩織が思ってるより私、彩織のこと好きだよ」
「……じゃあ、ちゃんと証明してよ」
そう言って彩織は目を閉じた。ここ。ここにしてほしい。口に出さずとも伝わる。
だけどその通りにするのは面白くない。だから……
「……ッ!」
「…………ちゅ」
無防備になっている喉元へ吸い付いた。頬にされると思っていた彩織は驚き、目を見開いている。
「キスって場所によって意味があるんだって」
「……意味? じゃあ喉はどういう意味なの?」
「後で調べてみなよ」
短く返事をして、再び吸い付く。気持ちが少しでも彩織に伝わるようにと、いつもより強く吸った。
「ん……今、教えてくれてもいいじゃん」
「駄目。後で調べて」
照れくさくて言えない。喉元へのキスの意味は守りたい気持ちと自分のものにしたい欲求。
それを知ったら私がどれだけ彩織のことを想ってるか分かってくれるかな——
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