164.

「あいかわ……?」


 少しだけ聞き覚えがある名前だ。会社に同じ苗字の人がいたっけ……な……。

 だけど、この人と私は初対面のはず。さっきの話が本当なら彩織いおりの副担任らしいけど、私とは何の関係も——


「……ッ!」


 誰ですか。そう聞こうとしたら、相川さんは人差し指を唇に当てた。黙っていろ、ということらしい。


「学校の先生? 娘の?」

「はい。そうですよ。いつも行事や三者面談にいらっしゃらないので今日が初対面ですね、神田さん」

「……ええ、そうですね」


 この場にいる全員に理解が出来るように毒を吐いている。……大丈夫か? この先生。さっきからずっと臨戦態勢なんだけど。

 先生と彩織のお母さんの間には見えない火花が散っている。


「これ。今日の配布物です。保護者さん向けのプリントもありますので、目を通してくださいね」

「ああ、どうも……」

「それから……少しで良いので彩織さんとお話させてもらえませんか?」


 ピクリとお母さんの眉が動き、明らかに不機嫌そうな表情をする。なにか、触れて欲しくないものに触れられた。そんな心境が垣間見える。


「娘は……風邪を引いてるんです」

「知ってますよ。だからお見舞いに来たんです。起き上がれないくらいの高熱なら諦めますが……。どうでしょう。少しだけでもお話させてもらえませんか?」


 やや強引な先生の言い分にお母さんが言い返そうと——



「せんせい……?」


 

 背後の扉が開き、パジャマ姿の彩織が現れた。体調が悪いのは本当らしく、顔色が悪い。それにひどく元気がなさそうだ。


「こんばんは。彩織さん、体調どう? 起きてて大丈夫なの?」

「えっと……」

「彩織。熱があるんだから部屋に戻りなさい」

「あ、うん……。分かったよ……」


 私と先生を見て何か口を開きかけた。

 だけど途中でお母さんが遮り、部屋に戻ってしまった。このままではロクに話も出来ない。


「先生。家までお見舞いに来てくれるのはありがたいですが、娘は体調が悪いんです。今日はこれでお引き取り願えませんかね?」

「そうですね……。彩織さんにまた学校で会えるのを楽しみにしてるってお伝えください。ああ、それと。宿題は体調次第なのでやってもやらなくてもどっちでも良い、と」

「分かりました。伝えます」

「それではこれで。夜分に失礼しました」


 勢いよく扉が閉まり、私たちを拒絶する。あのお母さんはなかなか手強そうだ。







「それで……なんですか、さっきの」

「ん?」

「私が誰って聞こうとしたら、黙ってろって。それに、どうして私の名前を? 初対面ですよね? 私たち」

「やだなぁ、初対面じゃないよ」


 初対面じゃ、ない……? 学校の先生の知り合いなんていない、けど……。

 それに高校を卒業してから友達とは疎遠になってしまっている。友達、と呼べる関係だったのかは未だに分からないけど。

 詰まるところ、いないのだ私には。大人になってからも喋ったり、ご飯に行くような友達が。

 だからこの人が誰なのかまるで見当が付かない——


「覚えてないの? 高校の時、ずっと席が隣だったよ」

「隣の席……?」

「私だよ、私。相川あいかわ あかね。本当に覚えてない?」

「…………あ。吹奏楽部の?」

「そうそう。覚えてるじゃん!」


 さっきまでの営業スマイルとはまるで違う。にぱっと笑うと親しげに肩に手を回した。


「久しぶり! 藤代ふじしろさん!」

「ああ、うん。久しぶり……って、そんな大きな声出したら近所迷惑だから」

「ごめんごめん。嬉しくて」


 嬉しそうに笑っているけど、高校の時そんなに仲良かったっけ……? 全然思い出せない。


「じゃあ場所変えようよ。ご飯行く? それとも私の家、この近くだから来る?」

「あ、それなら……」


 すぐ隣が私の家だから。その一言で私の部屋に直行することが決まった。





「おー、思ったより広い。これで1K?」

「うん。でもこの部屋、八畳ないくらいだよ?」

「え、私の部屋と一緒じゃん。やたら広く感じるなぁ。物が少ないからかな?」

「そうかも」


 相川さんを部屋に通しつつ、冷蔵庫を開けた。中身は……相変わらずお水しかない。


「飲み物、お水しかない。良い?」

「良いよぉ。私もお水派」

「それは良かった」


 いつも彩織と向かい合わせで座るテーブルに今日は相川さんがいる。なんだか変な感じだ。


「ねえ。思わず家に入れちゃったけど……高校の時、そんなに仲良かったっけ?」

「寂しいこと言わないでよぉ。三年間クラス一緒だったじゃん」

「……そうだっけ?」

「そうだよ?」


 部屋に着いてからもずっと相川さんは何が嬉しいのか、にこにこ笑っている。ちょっと不気味だ……。


「なに?」

「なにも?」


 怪訝な顔で尋ねてもこの返事。埒が明かない。


「なんでさっき、私が話しちゃったって言ったの?」

「あー、あれね。でも助かったでしょ? 私のナイスフォローのおかげで」

「……もしかして、狙ってあのタイミングで出てきた?」

「正解! よく分かったね」


 やっぱり。タイミングが良すぎると思ったんだ。大方、階段を上る途中で私たちの会話が聞こえたのだろう。


「本当に……先生なの?」

「なんで疑ってんのさ。大学も教育学部に行ったじゃん」


 そんなこと言われても……。

 クラスメイトがどんな大学、会社に行ったのかなんて知らない。知ろうともしたことがなかった。


「相変わらずだねぇ、藤代さんは」

「高校の時から何も変わってないって言いたいの?」

「いやいや、それはないよ。そうは言ってない」


 相川さんは大袈裟に手を振り、否定する。

 ……要領を得ないな。さっきから相川さんが何を言おうとしているのかまるで分からない。


「相変わらず冷めてるなーって思っただけ。ああ、いや。冷めてるって言ったら悪く聞こえるね。クールって言っとく」

「どっちも変わらないじゃん」

「変わるよぉ。与える印象は違うでしょ?」

「もういいよ、私の話は。それで……今日は何しに来たの?」


 嘆息混じりに問いかける。さっきから茶化してばかりだけど、この質問には……ちゃんと答えてもらわないと困る。


「さっき言った通り。お見舞いだよ」

「本当にそれだけ?」

「そうだ……って言っても納得しない?」


 当然、首を縦に振る。

 もしも私の想像が当たっているのなら、今日ここで相川さんと連絡先を交換しておきたいし、これから話す機会も増えるかもしれない。


「しないかぁ。そっかぁ……」

「……どこまで、知ってるの?」


 お願いだから当たっていて欲しい。学校に一人くらい、彩織の味方がいてほしい……!



「あのお母さんが彩織さんに暴力を振るってるってことは知ってるよ。それを私に聞くってことは藤代さんも知ってるってことで良いのかな?」

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