163.

 幸せにしてあげて。

 それを聞いた瞬間、小陽こはるちゃんを撫でる私の右手はピタリと止まった。この子は、本当に……。


「優しいね」

「……普通、です」


 泣き顔はつい二日前に見たばかり。それでも小陽ちゃんは恥ずかしそうに俯く。その気持ちを尊重して私も顔は見ない。

 ただ静かに、落ち着くまで隣に座っていた。







「小陽ちゃんはどこまで知ってるの?」

「どこまでって?」

彩織いおりの家庭事情。さっき解放してあげてって……」


 小陽ちゃんの涙が止まり、ようやく私は元の席に戻った。

 気になるのはさっきの言葉。あのお母さんから解放してあげて。

 どこまで彩織の家庭事情を知っているのか聞かなきゃいけない。その内容次第で私が話せることが変わってくるから。


「知ってますよ。暴力を、受けてるんでしょう? 実の母親から」

「……全部、知ってるってこと?」

藤代ふじしろさんの言う全部がどこまでのことを指すのか分からないけど、少なくとも体中傷だらけなことは知ってる。母親のコロコロ変わる彼氏がろくでなしばかりだってことも知ってる」


 だったら私が知っていることと同じだ。ここに彩織はいないけど、話しても問題ないだろう。



「……ちょっと待って。体中に傷があるって言った? 最近はマシになったと思ってたんだけど。前は顔とか腕とか。打撲痕があったけど、一昨日会った時は傷なんて——」

「それ、全部服で隠せない場所ですよね?」

「まさか……!」


 嫌なイメージが頭に浮かんだ。だけどそれは見当違いでもなんでもない。小陽ちゃんの表情を見る限り、紛れのない事実だ。


「見ようとして見たわけじゃないけど。体育の着替えとか、修学旅行のお風呂とか。……見えちゃうんですよ、どうしても」

「……そんなに、ひどいの?」

「この前の体育の時は背中に大きな痕があって……」


 カタカタと右手が震える。さっきまで手に持っていたスマホは机に落ち、真っ黒な画面を映し出したまま天井を見上げている。


「藤代さんは見てないんですか? 体の傷」

「見てない。知らない。だってそんな、服の下なんて見ないよ、普通……! 彩織も言ってこないし……!」

「……言っても無駄だって思ってるんだと思います。高一の頃、先生や周りのクラスメイトに対してそんな態度だったので」


 言っても無駄と思われてしまえばそれで終わりだ。確かに私は彩織の家とは無関係、赤の他人でしかない。私に解決できる問題じゃないことは目に見えているし、そう思っても仕方のないことだと思う。

 だけど、相談してほしかった……! 嫌なことがあったのなら私に話して欲しかった……!


「今日学校を休んでるんですよ、彩織ちゃん」

「…………え?」

「担任の先生は体調不良だって言ってたけど……本当、なのかな」


 嫌な、胸騒ぎがする。

 この時間は彩織にお母さんは家にいるだろうし、本当に彩織が体調不良なら看病してくれている……のか?


「そういえばまだチャット返ってきてない。既読も付いてないし。本当に風邪で寝込んでいるなら良いんだけど……」

「…………」


 普通に考えれば風邪がひどくてベッドで寝ているのだろうけど、この妙な焦燥感はなんだ。この、チリチリと焦がれる焦燥感はなんなんだ。




「ごめん。私、帰る」


 我慢できなくなり、鞄を片手に立ち上がる。本当なら小陽ちゃんを家まで送り届けたかったけど、そうもいかなくなった。こっちのほうが急を要する。


「お願いしますね、彩織ちゃんのこと。きっと藤代さんに助けて欲しいと思ってると思うから」

「……ありがとう」


 駐車場へと走り、車に乗り込む。

 今、彩織の家に行ったらお母さんもいるだろうけど、気にしていられない。電話じゃ駄目だ。直接無事を確かめないと気が済まない。




「信号が……」


 あと一つ交差点を越えれば、というところで信号に引っ掛かった。あと少しで着くのに……!


「…………」


 気づけば指でコツコツと音を立てていた。傍から見たら神経質そうな人に見えるだろう。

 この信号が切り替わるまでの時間がもどかしくて仕方ない。


「……やっと変わった」


 赤信号が青色に光り、車が流れ出す。その流れに沿い、私もアクセルを踏み込んだ——






「…………どうしよう」


 勢いだけでここまで来てしまった。玄関ドアの前で立ち尽くし、呼び鈴を鳴らすかどうか迷っている。

 このボタンに触れるだけ。たったそれだけなのに出来ない。

 もしも本当に風邪で寝込んでいたら? お母さんになんて思われる? 私が来たら迷惑じゃないか?

 臆病な心と杞憂が邪魔をして私の体を縛っている。右手が、言うことを聞かないんだ。


「…………」


 扉の先からは何も聞こえない。話し声もテレビの音も。音のない家は不気味に感じる。生活感がまるでないのだ。

 こんな息苦しいところに彩織がいるのか。

 それを考えただけで燻ぶっていた火種が再び胸に灯る。

 ここにいるのは私だけ。中の様子を確かめられるのも私だけ。

 それが頭に浮かんだ瞬間、自然と右手がチャイムを鳴らしていた。


 ピンポーン。


「……はい」

「あ、すみません。私、隣の部屋の藤代と申します」


 予想通り玄関を開けたのは彩織の母親だった。一度階段ですれ違っているから顔は知っている。彩織にとてもよく似た美人なひと


「……うちに何か用ですか?」

「ええと……用っていうか……その……」


 彩織のお母さんは明らかに怪しい私を訝しげな顔で見つめる。普段喋ったことのないような隣人が訪ねてきたらそうなるだろうな。私だって同じ立場だったら似たような表情を浮かべる。

 だけど、なんとか家に上げてもらいたい。彩織の様子が見たい……!


「娘さんの彩織ちゃんが体調不良だって聞いたんですけど……大丈夫ですか?」

「……はぁ?」


 お世辞にも他人に向ける視線とは言えない、鋭い視線を向けられる。足が竦んでしまいそうだ。


「なんで貴女がそれを?」

「えっと、それは……」


 言葉に詰まる私にますます鋭い視線を投げかける。今にも扉を閉めてしまいそうな勢いだ。このままじゃ、まずい——




「私が話してしまったからですよ。……ね、藤代さん」


 突如として聞こえた声。

 驚き、左に視線を向けるとスーツ姿の女が一人。こんな人、身に覚えがない。誰だ……?


「夜分にすみません。お見舞いに来ました」

「……貴女は?」

「先生ですよ、彩織さんの。……ああ、そうか。まだ一度も顔を合わせていませんでしたね」


 とびきりの営業スマイルを浮かべ、その女の人は名乗る。



「初めまして。彩織さんのクラスの副担任をさせて頂いてます、相川あいかわです」

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