162.

「お疲れ様です。お先に失礼します」

藤代ふじしろさん、お疲れー!」

「おつー」


 定時のチャイムが鳴り終えて、すぐに事務所を出る。

 この痕は特に予定はないけれど、残業する予定もない。ここのところ残業規制が強いられているから尚更早く帰宅する。

 どうやら会社の財政状況が良くないらしい。だからこそ、生産性を上げる実践をしないといけないとかなんとか。

 倒産とか人件費削減とか。そういう物騒な話が出なさそうなのがせめてもの救いだ。








「……ん?」


 アパートの駐車場、車から降りる前にふと気づいた。スマホに通知が来ている。誰だ……?


「…………小陽こはるちゃん?」


 別れ際に連絡先を交換していたけど、チャットが送られてきたのは初めてだ。


『ごめんなさい。突然チャット送って。今って少し話せますか?』


 チャットが送られてきた時間は今から三十分前。会社を出たくらいの時、か……。

 慌ててスマホをタップし、返信する。ええと、今なら……。


『返信遅くなってごめんね。どうしたの? 今ちょうど仕事終わって家着いたところだけど、どうする?』


 すぐさま既読が付き、新たなチャットが送られてきた。


『お仕事お疲れ様です。今、駅にいるんですけど……』

『行こうか?』


 きっと私が家にいるのに出てきてもらうのが申し訳ないと思ったのだろう。なかなか続きが送られてこない。

 だから私は、自分からそれを提案する。


『良いんですか?』

『良いよ。今いるのは上大沢かみおおさわ駅?』

『はい。上大沢のドラックストアにいます』

『分かった。着替えてから行くから駅に着くのは三十分後になると思う』

『お願いします』


 チャットの返信もそこそこに、急いで階段を駆け上がる。

 小陽ちゃんの帰りが遅くなるのは良くないし、早めに合流しないと。

 作業着を脱ぎ捨て、クローゼットからデニムとTシャツを引っ張り出す。時間もないし、これで良いだろう。

 かえでさんと一緒に買った服はまだ洗濯していないから、また今度。

 あとは財布を会社鞄から普段使いの鞄に移し替えて……よし。

 再び階段を駆け下り、車へ飛び乗る。エンジンはかけたままだからすぐに発進出来る。

 サイドブレーキを解除し、シフトレバーをドライブに。

 小陽ちゃんがいる上大沢駅に向かって緩やかに車は走り出す——







「あっ……!」

「お待たせ」

「すみません、ありがとうございます……!」


 目が合うとすぐに小陽ちゃんは私に駆け寄ってきた。制服のままということは学校が終わってからずっとここにいたのか……。


「どうしたの? というか、彩織いおりじゃなくて私で良かったの?」

「彩織ちゃんじゃなくて藤代さんに話したかったので。……場所、変えますか?」

「そうだね。改札近くに喫茶店あったよね、そこで良い?」

「はい」


 小陽ちゃんと並んで駅ナカを歩く。

 ……こんなところを彩織に見られたら、また嫉妬して噛みつかれそうだな。

 想像するだけでブルリと肩が揺れた。あの日つけられた痕はまだ残っている。人目につかないようにファンデーションで隠してはいるものの、確かに今ここに残っている。



「それで、話って何? 彩織に聞かれたくない話?」


 私はアイスコーヒー、小陽ちゃんはアイスココア。それぞれ注文し、席に着いた。

 小陽ちゃんの分もまとめて払おうとしたけど、頑なに遠慮されてしまった。やっぱり急に私を呼び出したことに引け目を感じているようだ。


「聞かれたくないというか、なんというか……」

「なんでも聞くよ。言いたくないことは言わなくても良い。言える範囲で言ってごらん」


 小陽ちゃんが語り出すのを待ちつつ、アイスコーヒーで喉を潤す。




「フラれました」

「えっ……?」


 簡潔にたった一言。ただそれを聞いただけで何故私がここに呼ばれたのか分かった。


「直接告白する勇気がなくて、電話で伝えたんです」

「あ。一昨日の……」

「はい。藤代さんが私の気持ちは否定しないって言ってくれたから。それで」

「そっか……」


 昨日、小陽ちゃんは別れ際に彩織に通話しようと言っていた。その時に伝えたんだ……。


「彩織ちゃん、何か言ってました?」

「何も。昨日は会ってないし、土曜日以来喋ってないんだ」

「そうなんですか……。てっきり毎日会ってるのかと。ほら、家が隣だし」

「彩織、バイトも勉強も忙しそうだし……あ、小陽ちゃんも一緒か」

「私はそんなに。バイトも自分が欲しいものを買うためにやってるくらいなので。勉強も……テストで赤点取らない程度にって感じです」


 言い終えて、小陽ちゃんはアイスココアに手を伸ばした。口をつけるわけでもなく、ストローでカラカラと回し、弄んでいる。

 言いたかったことがまだ言えていない。そんな雰囲気だ。


「それで小陽ちゃんはどうしてほしいの? 私に」

「どうしてほしい?」

「フラれたって報告するために呼んだわけじゃないでしょ。どうしてほしい?」


 見る見るうちに目に涙が溜まり、ぽろぽろと溢れ出す。


「…………慰めてほしい、です」

「分かった」


 向かい合わせの席から立ち上がり、小陽ちゃんの隣に座る。なるべく顔は見ないようにして、優しく頭を撫でた。


「……私、頑張りました」

「うん。分かってるよ。自分の気持ちを人に伝えるのは難しいことだから。それが出来る小陽ちゃんはすごいよ」

「……でも藤代さんに敵わなかった」

「…………」

「……私では、彩織ちゃんを幸せに出来ない。だから——」


 小陽ちゃんは涙を流したまま、私の胸倉を掴み、力任せに引き寄せた。



「お願いだよ、藤代さん。彩織ちゃんを……幸せにして。あのお母さんから……解放してあげて」

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