139.

 実践の集合を終え、退社する。

 家路を急ぐ人の流れに沿って、駐車場へと歩く。

 彩織いおりから今日の夜に見せたいものがあるとチャットで聞いている。昨日会った時に見せれば良かったのにと思わないわけでもないが、黙っておいた。

 だって昨日も今日も、二日間も会えることは嬉しい事だ。わざわざ水を差すようなことは言いたくない。

 彩織は私に何を見せたいんだろう——






「おかえり!」


 アパートの階段を上り切る前に扉が開き、彩織が飛び出してきた。また窓から私の車が止まるのを見ていたのだろう。

 今日は情けない声は上げず、両手で受け止められた。なんとなく彩織が飛び出してくるんじゃないかって予感がしていたから。その予感は見事的中した。


「ただいま。見せたいものって何?」

「ちゃんと持ってきてるよ。部屋に上がってから見せる!」


 彩織が慌てて後ろ手に隠したのは…………クリアファイル? 何を見せるつもりなんだろう。


「待って。今、鍵を開けるから」


 早く早くと急かす彩織に苦笑しつつ、玄関の鍵を開けた。私の後に続き、彩織も部屋に上がる。



「これ! これ見て!」

「なに……?」


 部屋に入った途端、リアファイルを手渡された。中に入っていた用紙を取り出すと、そこには——



「…………学年四十位? これ、学校のテスト結果?」

「うん。中間テストの結果だよ! 今回頑張ったんだ!」

「へぇ……すごいね。私、こんなに良い順位取ったことないよ」


 彩織が通う学校は一学年だけで三百人を超える。それだけの人数の中で順位が二桁とは恐れ入る。


「でしょ! かなり結果が良かったから羚ちゃんに見せようと思って! 急にチャット送ってごめんね」

「大丈夫だよ。私こそ返信遅くてごめんね。お昼に送ってくれてたのに」

「そんなの、全然……!」


 さっきから彩織は落ち着きがない。ソワソワと私の顔を見たり、手元のテスト結果を見たり。なんだろう……?


「私、毎日頑張って勉強したんだ。三年生の中間テストが就職に向けてかなり重要だって聞いたから。それで……あの……」


 ……なるほど。分かった。

 彩織の口は多くは語らないが、目は口程に物を言う。褒めて欲しい、撫でて欲しい。その両目が雄弁に語っている。



「よくできました」

「……!」



 優しく頭を撫でる。こういう経験は決して多くないから、これで良いのかは分からない。

 恐る恐る、私のお母さんがしてくれたように彩織の頭を優しく撫でた。


「…………ご褒美が、欲しい」

「ご褒美? 困ったな。……あげられるものが何もないや」


 部屋の中を見渡してみても彩織が喜びそうなものは何一つない。冷蔵庫の中も同じだ。ケーキもお菓子も何もない。

 先に言っておいてくれたらちゃんと準備したのに。


「ごめんね。見ての通り、何もない部屋だから。彩織が喜びそうなものなんて――」

「物じゃなくて良い。…………写真を撮らせてほしい」

「写真? 私の?」


 それはもっと困る。昔から写真に写るのは苦手だ。カメラ目線も自然な笑顔も、上手に出来た試しがない。


「なんで写真……?」

「アイコン画像を変えようと思ってて。羚ちゃんと一緒に撮った写真にしたいなーって。駄目?」

「駄目っていうか……うーん……」


 そんな顔をされると益々困る。せっかくテストで良い結果が出たんだからご褒美はあげたい。だけど、写真か……。

 しかも彩織はアイコン画像に使いたいと言っている。彩織と連絡先を交換している全ての人の目に入ってしまう。当然のことだが、少し恥ずかしい。

 そもそもどんな顔をして写れば良いのかも分かんないし……。



「ねえ、お願い。写真撮ろうよ。一緒に写真撮りたいよ」

「…………うん、分かった」


 結局断れず、彩織の真横に移動した。顔を近づけ、彩織のスマホを見つめる。


れいちゃん、もうちょっと笑って」

「ごめん、写真撮られるの苦手で。笑ってって言われても、なかなか上手く出来ない……」


 スマホに映る私の顔はお世辞にも笑っているとは言えない。せいぜい苦笑いといったところか。

 こんな表情かおで写真を撮っても彩織にとってご褒美にはならないだろうな……。


「んー……じゃあ少しお喋りしよう。羚ちゃん、肩に力が入ってるみたいだし」

「お喋り?」


 右手で持ち上げていたスマホを下ろし、彩織は私の膝の上に座った。


「羚ちゃんは会社でどんなことをしてるの? 前に工場勤務って言ってたよね」

「改善チームってところに所属してるんだけど、今は安全実践研究ってのに参加してるよ」

「改善チーム? チームがたくさんあるの?」

「たくさんっていうか……私がいる製造課ではチームは二つだけかな。他の課はもっとチームがあるかもしれないけど」

「二つしかないチームに羚ちゃんは入ってるんだ。すごいね」

「そうかな?」


 すごいのかどうかは分からないけど、彩織に褒められて悪い気はしない。


「改善チームはどんな仕事をしてるの?」

「主に現場改善……かな。今月の頭に改善チームに異動したから、まだまだ新人。毎日教えてもらうことばかりだよ」


 言って、ふと思った。

 そういえば改善チームに異動した日の夜に彩織と出会った。

 ……いや、お互いのことは前から知っていたかもしれない。同じアパートだし、すれ違うこともあっただろう。

 だけど私たちはあの日を境に関わり合い始めた。今となってはこうして一緒にいる時間も増え、お互いにとってなくてはならない存在になった。

 ……あの日から随分遠くに来た気がする。


「羚ちゃん、何考えてたの? 顔が緩んでる」

「うん。そういえば改善チームになった日に彩織と出会ったなって」

「そっか。あの日に異動だったんだ」


 彩織も感慨深そうに目を細めた。私も彩織もあの日のことはよく覚えている。きっと何年経っても忘れない。いくつ歳を重ねても鮮明に思い出せるはずだ。


「後悔、してない?」

「何を?」

「あの時、私に手を伸ばして。……後悔してない?」

「後悔なんてしてないよ。彩織と一緒にいるのが楽しいんだ。今が楽しいんだから、きっとこの先だって二人一緒なら楽しいに決まってる。だから……これからも一緒にいさせてね」

「それは私こそだよ。ずっと一緒にいてね。私から、離れないでね」


 なんだか気恥ずかしくて、誤魔化すように彩織の頭を撫でた。彩織の髪は撫でているこちらが気持ち良くなるくらいツヤツヤだ。やっぱり若さかな……。


「羚ちゃん。もうちょっとこっちに来て……うん、そのくらい」

「……?」


 言われるがままに顔を寄せた。頬がくっついて生温かい。





 パシャリ。


「……あ」

「今なら撮れそうと思ったから、つい」


 えへへと笑いながら、彩織はすぐにスマホに保存された写真を見せてくれた。私と彩織が顔を寄せ合っている写真。そこに写る私は、自然な笑顔を浮かべていた。

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