69.

れいちゃん? ……ごめん。嫌だった?」

「ちがっ……。そんなことは、ないけど……」


 言えるわけがない。その舐めとる姿が妙に扇情せんじょう的で、ドキドキしたなんて。そんなこと、彩織いおりに言えるわけがない。


「そっか。ティッシュを渡せば良かったね。これ使う?」

「……ありがとう」


 彩織からティッシュを受け取ったものの、早鐘はやがねのような胸の鼓動は未だ収まらない。

 それを知られないように努めて冷静に口元を拭った。


「食器とかお箸とか。意外に揃ってるよね、羚ちゃんちって。部屋は物が少ないのに」


 そんな私の心など知らず、彩織は物珍しげに私の部屋を見渡した。ベッドとソファーとテレビ。大したものは置いていない殺風景な部屋。

 物を置くのは好きじゃない。息苦しく感じるから。だから住み始めた頃からずっとこんな感じだ。


「物が多いと管理が大変だから。掃除の時、どかさないといけないし」

「なるほどね。うちもいらないもの捨てれば良いのに」

「いらないもの?」

「うちのお母さん、夜のお店で働いてるから貰い物が多くて。でも好みじゃなかったら全然使わないの。いらないなら捨てちゃえば良いのに」

「そう……」


 彩織からお母さんの話題が出るのは珍しい。夜に仕事に出かけると聞いて、なんとなくそういうお店で働いているのかなとは思っていたけど。やっぱりそうなんだ。


「最近は……大丈夫?」

「大丈夫だよ。日中は学校だし、土日はバイトだから。会わなければ大丈夫。それにお母さんだっていつも暴力的じゃないよ」

「そうなの?」

「うん。暴力を振るう時もあるけど、落ち着いたらごめんねって言ってくれる時もあるし。お酒が入ってると手が付けられないけど」


 ごめんね。で、済むわけがない。彩織は身体も心も傷つけられている。それなのに、母親は——


「そんな顔しないで。私は大丈夫だから」

「…………助けられなくてごめんね」


 ずっと、どうしたら良いか考えていた。

 彩織がこれ以上、暴力を受けないように。傷つかなくて済むように。私に何が出来るのか考えていた。


「家庭の事情に私は……口を出せないから……」

「……大丈夫だよ。十分、助けられてるよ」

「だから——」


 いつか渡そうと思っていた。どうしようもないくらい彩織が傷ついた時に渡そうと思っていた。

 ベッド横の引き出しに手を入れ、それを取り出す。


「これ、あげる」

「これって……」

「うちの合鍵。家に居づらい時は……ここに来て良いよ」

「え…………いや、いいよ。貰えないよ。だってこれ以上は羚ちゃんに迷惑が——」

「迷惑じゃないよ。私が良いと思ったから渡すの。むしろ……断られるほうが傷つくんだけど」

「……ッ!」


 何度か私と鍵を見比べ、彩織はおずおずと両手を差し出した。その手のひらにゆっくりと合鍵を置く。


「本当に良いの……?」

「良いよ。私がいない時はそれ使って入って」

「分かった。ありがとう……!」


 大事そうに合鍵を両手で包み込んだ。心なしか口元が緩んでいる。けど、きっと私も人のことは言えない。だって、今。笑ってるもん、私。


「大事にするね」


 彩織はなくさないようにそれをポケットへと仕舞おうとして——


「……あれ。このキーホルダー、羚ちゃんの?」

「いや、それは……」


 合鍵に付いていた猫のキーホルダーを不思議そうな顔で見つめる。私の趣味……とは言い難いそれを顔の高さまで持ち上げた。


「前の……」

「前の?」


 言いかけて口を閉じる。

 ……まだ、言えない。かえでさんのことはまだ彩織には言いたくない。今話せばきっと軽蔑される。それは嫌だ。


「なんでもない。なくさないように付けただけ。他に付けたいキーホルダーがあったら外しちゃって良いよ」

「……そっか」


 きっと気になっただろうに、彩織は深くは聞かず伏し目がちに頷いた。

 猫のキーホルダーは外されることなく、鍵と一緒に彩織のスカートのポケットへと吸い込まれていった。









「お先。お風呂、ありがとう」


 今日は彩織に先にお風呂に入ってもらった。少しだけごねたが、お客さんだからと強く言うと彩織はしぶしぶ従った。

 着替えは家に戻すのも危ない気がして、私のスウェットを貸したけど……


「服が……ちょっと大きかったね」

「羚ちゃんのほうが身長高いし、仕方ないよ。でも、ほら。まくれば大丈夫だよ」


 ほら、と彩織は足をぶらぶらさせる。私の貸したスウェットから白い足首がちらりと見える。……ほんと、肌白いなぁ。


「じゃあ次、私行ってくるね。楽にしてて。ソファーでもベッドでも、好きに使って良いから」

「はーい」


 着替えとバスタオルを持って脱衣所へ。着ていた服を全て脱ぎ、洗濯機の中に放り込んだ。

 既に洗濯機の中には彩織が使ったバスタオルが入っている。そんな些細な事についつい、目がいってしまう。

 ……なんだか変な感じ。私の部屋なのに、そうじゃないみたい。彩織がいるだけでいつもと違う。

 なんて言い表せば良いのかな……。今は上手い言葉が思いつきそうにない。



「はぁ……お風呂入って落ち着こう……」


 すっかり乱されてしまったペースを取り戻すために、いつもより長く湯船に浸かった。

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