11.
「——! ————!」
隣の部屋から怒鳴り声が聞こえて目が覚めた。目覚ましはまだ鳴っていない。
私の部屋は角部屋だから隣の部屋は一つしかない。間違いなく
今までは怒鳴り声が聞こえても静かにしてほしいとしか思わなかった。
でも私は知ってしまった。誰に対して誰が怒鳴っているのかを。
朝から気分が悪い。
着替え、朝ごはん、洗顔と歯磨き。いつも通りの日常なのに隣から声が聞こえるだけでこんなに心が揺れる。
ここまで心が揺れるならきっと彩織のことは他人じゃない、少なくともそう感じているんだと思う。
でも何も出来ない。隣の部屋に入ることも今の彩織を助けることも。何も出来ない。
だから今日もイヤフォンで耳を塞いだ。
聞きたくないものは聞かない。見たくないものは見ない。
七時三十分になり、イヤフォンを外すともう怒鳴り声は聞こえなかった。いつも通りの日常に戻り、私は今日も会社へ行く。
いつもと同じ道、同じ場所で赤信号に引っ掛かった。車を停止させ、左に曲がるためにウィンカーを出す。
ハンドルに両手を乗せながら頭には彩織のことが浮かぶ。
今日はなんでもないただの平日だ。あの後も彩織は何事もなく学校に行くんだろう。なんでもない顔をして、いつも通りの日常を過ごす。
私には分からない。なんであの子があんなに普通でいられるのか。
もっと誰かに…………。
いや、よそう。私にできることは何もない。考えるだけ無駄だ。
それに彩織だけじゃない。みんな何かしら問題を抱えて生きている。家庭の問題、経済的な問題、学校や会社での人間関係もそうだ。
みんな違ってみんな辛い。彩織一人に感情移入しすぎるのは良くない。きっとあの子と同じような環境にいる子だってどこかにいるはずだ。
私自身のことだって何も解決していないのにむやみに他人に手を差し伸べるのはどうかと思う。
今まで通り部屋に入れてと言うなら入れるだけ。それ以上でも以下でもない私たちの関係。決して他人ではないけれど友達でもない不思議な関係。
赤信号が青に変わる。私も日常に戻らないと。
進行先を確認し、左に曲がる。ここを曲がればあとは直進だ。会社に向かってひたすら真っ直ぐ進む。いつも通りの時間に出勤するために。
「おはようございます」
「藤代さん、おはよ!」
「おはようございまーす」
挨拶しながら事務所に入ると既にパソコンを触っていた
メールチェックだろうか、二人とも似たような画面を見ている。
私もすぐにパソコンの電源を入れ、同じようにメールを開く。
「おはようございます」
「おー、
「おはようございます」
「うーっす」
続いて松野さんがやって来た。野中さんに続いて私も挨拶を返す。
「あれ、みんな同じの見てますね。メールっすか?」
「品質からのメール見ててさ。今日の実践研究のメンバー表が届いてる」
「
「黒部さんと菱木さん……?」
「藤代さんは知らないか。品質保証課の古株で現場をよく知ってる二人だよ。厳つい顔してるのが黒部さんで、いかにもインテリみたいな雰囲気の人が菱木さん。ちなみに俺と藤代さんと同じチームなのは黒部さんね」
「二人とも知らないです……。今日が初対面かもしれないです」
「大丈夫だって、二人とも女の子には優しいから」
「間違いない! 前に俺が品質保証課いた時めちゃくちゃ厳しかったですもん! 俺には厳しいのに同じ課の女の子には優しいんですよねー」
「多井田が品質いた時って女の子いたっけ? 野郎ばっかじゃなかったっけ?」
「ちょうどその年に新入社員が入ってきて女の子いるんですよ。品質保証課が野郎ばっかなんて今は昔、ですよ。ほらちょうどその女の子、野中さんたちのチームに入ってますよ」
そう言って多井田さんはメールを開くパソコンを指差した。
黒部さんの下に女の人らしい名前がある。
「いま三年目だったかな、双葉さん。藤代さんと同じ大商じゃない? 面識ある?」
「ないです」
三年目ということは私の二つ年下だ。つまり私が高校三年生の時に一年生だったということになる。
面識はない。きっと向こうは私のことを知らない。
「なら、この機会に仲良くなれると良いね。せっかく同じ学校出身で歳も近いんだし」
「そう……ですね」
にこりと野中さんが私に笑いかける。
双葉さんと仲良く、ね。
双葉さんは私のことを知らないだろうけど私は知っている。背が高くてスタイルが良くてすごく美人な女の子。
噂話に疎い私にも届くくらい有名だったから。
私とは真逆の女の子。そんな人とどうやって話せばいいんだ。
元々不安だった品質実践がさらに不安になった。胃がキリキリ痛む。
ただひたすら裏板を検査して梱包していた日常に戻りたいと少しだけ思った。
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