10.
ガチャン。トントントントン。
隣人が部屋を出ていく音が聞こえた。
「お母さん、出て行ったみたいだよ」
「……うん、分かってるよ。ちゃんと帰るから」
私の腰に回した腕を解き、ゆっくり離れる。彩織がさっきまで触れていた部分はじんわりと汗が滲んでいた。
「じゃあ帰るね」
「うん」
気をつけて、言いかけて口を閉じた。ドアを開けて、すぐ隣の部屋に入る。一体何に気をつけるというのか。
分かっている、そうじゃない。彩織が何に気をつける、警戒すべきなのか。でもそれを私が言ってどうなるっていうんだ。気休めにもならない。
「そうだ、ハンバーグいつにする?」
「いつ……明日も来るの?」
「明日は……行かない、かも」
何か思うところがあるのか歯切れが悪い。かも、なんて言い淀むところを初めて見た。
「……その、明日はいいの?」
「いいって何が……ああ、そっか」
最後の声は聞こえるか聞こえないかくらいの囁き声だった。家に居ても大丈夫なのかって意味で言ったんだけど、
「明日は私が帰るの遅くなるから……だから大丈夫だよ」
「そう……」
「だから別日で……って日にち決めるのは大変だね。羚さんも仕事とかあるだろうし。連絡先、交換しよ?」
いつの間にか手に持っていたスマホをずいっと目の前に差し出した。チャットアプリも開いているから用意周到だ。
「……」
「まさかスマホ持ってないとか言わないよね?」
「持ってる、けど」
私もポケットに入れていたスマホをおずおずと取り出した。
「なんだ、持ってるじゃん。アプリ開いて……もしかして、私と連絡先交換するの嫌?」
「嫌じゃないよ。ただ……そのアプリ、入れてない」
「…………は?」
彩織は目を見開いて固まってしまっている。
スマホを持っている人のほとんどがインストールしているというチャットアプリ、私はそのほとんどに入っていない。
チャットを送る相手もいないし、会社の人との連絡は電話かメールが基本だ。だからインストールしていない。
「なにか特別な理由でもあるの? 絶対連絡を絶ちたい人がいるとか」
「単に使わないだけだよ」
「だったらこれからは私とチャットしようよ。ほら、今インストールしよ!」
言われるがままアプリをインストールし、登録した。彩織が自分のスマホと私のスマホを操作してあっという間に私たちはお友達になっていた。
「……すごい、自分で入力しなくても連絡先追加された」
「いやいや、これが普通だから。ていうか羚さん私しか友達いないじゃん」
「ほんとだ」
チャットアプリのお友達の一覧には神田 彩織の登録しかない。今初めてアプリを入れたのだから当たり前のことなのになんだか面白い。
「彩織としかチャットしないし、これで良いよ」
「……家族とか」
どんな顔をしていたのだろう、私は。さっきまで笑っていた彩織が凍り付いている。やってしまった、そんな心の声が聞こえてくるくらいに。
「……ごめん、なんでもない。とにかく今度部屋に行く時はチャット送るから。未読無視とかしないでよ」
「分かった」
今度こそ彩織は帰って行く。スマホを片手に。
さようなら、またね、ばいばい。なんて言えば良かったんだろう。友達ならまたね、で良いんだろうか。
彩織はお友達だ、チャットアプリの中では。
じゃあ現実でも友達かと言われると分からない。友達、知り合い、他人。どれもしっくりこない。
私たちの関係って一体何なんだろう。
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