最終話 時を超えた秘密基地

 強い日差しが、瞼の裏を真っ白に染めた。

 真夏の太陽が、窓越しに達哉たつやの顔を容赦なく照らしている。あの日以来十年余り、いつも閉めっぱなしのはずのカーテンは、開け放たれていた。少しだけ開いた窓から、湿った風とけたたましい蝉の声が部屋の隅々まで入り込む。


 目を覚ますと身体は完全に元どおり、大人に戻っていた。

 強烈な光で掠れた目をこすりながらあたりを見回すと、そこは見慣れた自分の部屋だった。


 夢でも見ていたのだろうかと頬をつねってみて、それが夢を見ている最中にするべき行動だと気が付く。思わず苦笑いが溢れて、笑うのは久しぶりであることを思い出した。

 ついさっきまでの不思議な出来事が、夢なのか現実なのか分からなかった。ただ、不思議な出来事に遭遇する以前の、大人の達哉ではとうてい持ち得ない清々しい気持ちと、活力に満ちている。夢であろうと現実であろうと、それだけで得した気分だった。



 ブーーーーッという振動音が小さく鳴っているのに気がついたのは、鏡の前で自分の顔や体を触って、子供に戻っていた形跡がないかを確かめていた時だった。滅多に鳴らないためすぐには気がつかなかったが、マナーモードにしたスマートフォンの振動音だった。

 慣れない手つきでタップすると、聞こえてきたのは紗雪さゆきの声だった。


「あ、たっちゃん!? よかった。やっと出たっ!!」


「あぁ、さっちゃんか。どうしたの? 電話してくるなんて珍しいじゃん?」


 僻みっぽくなることなく、声も震えず、達哉自身、驚くほど自然な受け答えができていた。


「……あのさ、たっちゃん?」


 言いにくそうにする紗雪に、達哉はある種の予感のようなものを感じていた。


「おう、どうした?」


 最初に応対したときよりもいくらか緊張した声が漏れる。


「変なこと訊くけど、笑わないでね?」


「変なこと?」


「うん。変なこと。ねぇ、リンちゃんって覚えてる? 猫のリンちゃん」


「あぁ。覚えてるよ」


 鼓動が速くなる。スマートフォンを持つ手が心なしか震えていた。


「私ね? 夢の中でリンちゃんとお話ししちゃった。リンちゃんは人間になってて、私は子供で。たっちゃんも、まさくんも、こうちゃんも子供で。みんな、子供で。人間になったリンちゃんとお話しができたの。それから、リンちゃんのおかげで真凛まりんちゃん——、大野真凛おおのまりんちゃん、覚えてる? あの子が私たちの友達に加わったの」


 すぐには言葉が出てこない。夢じゃなかったと確信する。さっきまで起きていたことは現実だったのだ。


「たっちゃん……?」


 達哉が何も答えないから不安に思ったのか、紗雪は心配そうな声で達哉に呼びかける。少し遠く感じられるその声で達哉は我に返った。


「あ、あぁ。ごめん。その夢、俺も見たよ。……本当に、夢だったのかな?」


「えっ? どういうこと? たっちゃんも見たの? リンちゃんとお話しする夢? 真凛ちゃんと仲良くなる夢?」


「うん。たぶん、同じ夢」


 達哉の答えが予想外だったのだろう。今度は紗雪が黙ってしまう。


「実は、俺もみんなに確かめたかったんだ。さっちゃんが見たっていう夢。夢っていうには、すごくリアルじゃなかった?」


 達哉の問いかけに、やや間があって紗雪は答えた。


「……たしかに。ねぇ、たっちゃん。変なこと、聞いていい?」


「また、変なことかよ。なんだ?」


「今度はさっきよりも、もっと変なこと。でも、怒らないでね」


「怒らないよ」


 スピーカー越しに深呼吸をするような音がする。スーーッと空気が流れる音のあとで、再び紗雪の声が聞こえた。


「たっちゃんさ、小学生のときリンちゃんを川に落としたことって……ある?」


「うん。あるよ」


 あの不思議な出来事がなければ唐突だと思ったかもしれない。もしかしたら、必死で否定して、怒り出していたかもしれない。しかし、達哉には必然の質問だと思えた。

 後ろめたい気持ちはなかった。悪いことだとは理解しているが、後ろめたくはない。


「さっちゃんがそれを知ってるってことは、やっぱり夢じゃないんだ。さっちゃん! まさくんとこうちゃんに、このこと話した?」


「ううん。まだ話してないよ」


 電話越しに紗雪がかぶりを振るのが聞こえる。


「そっか。なぁ、久しぶりに集まらないか? 今度は、仲良し人組で。……って言っても、なんか久しぶりな気がしないけど」


「あはは。そうだね。仲良し人組で。じゃあ、こうちゃんとまさくんには私から連絡しておくね」


「頼んだ。集合場所は、いつもの秘密基地で!!」


 電話を切って、窓辺に目をやるとリンにあげたはずの小さな鈴が、見たことのないマリンブルーの器とともに並んで置かれていた。


 チリン――。


 鈴が一度だけ達哉に語りかけるように、ひとりでに鳴る。達哉には「あたしたちも連れていってね」と言っているように思えた。


「当たり前だろ?」


 達哉は鈴に向かってそう答えると、秘密基地に向けて駆け出していた。その拍子にふわりと一陣の風が巻き起こる。その風に煽られて、一封の封筒がひらりと舞い落ちた。そこには可愛らしい黒猫のキャラクターがあしらわれていた。



 秘密基地へ向けて、全力で駆けていく。早くみんなに会いたかった。

 蒸し暑くまとわりつくような熱気の中、後ろには小さな猫と大人の達哉よりもだいぶ小柄な少女がパタパタと足を鳴らして付いてきている。チリン——、という鈴の音とともに達哉は、確かにそれを感じていた。




【了】

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