第51話 後悔と苦悩

「拒絶——、した自覚はあるわけね?」


 長い沈黙を破ったのは、独り言のような大野真凛おおのまりんのつぶやきだった。


「悪気はなかった。っていうのは、言い訳になるって分かってる。本当は、もっと早くに謝るべきだった。今更かもしれないけど……本当にすまなかった」


 何が起きているのかいまいち理解できないリンたちの目の前で、達哉たつやは唐突に大野真凛に謝った。


「もう……遅いよ。本当、浅川くんの言うとおり。今更だよ」


 小さな声が、秘密基地に響く。


「どういうことなの? ねぇ!! マリン! たっちゃん!」


 リンは半ば叫ぶようにして、達哉と大野真凛の名前を呼んだ。


「もう一度やり直せば、なかったことにできると思ったんだよ」


 達哉は力無く答えた。その答えにリンは首を傾げる。


「本当は、ちょっと前に全部思い出してたんだ。リン。お前の姿を見て、お前が「リン」だって名乗ったときから、もしかしたら、あのリンなんじゃないかって思って、そしたらやっぱりあのリンで——。さっちゃんが、「どうしてこうなったの?」ってリンに訊いた時、このままじゃやっぱりダメなんだって分かったんだ。俺は、俺のしたことの始末をつけないといけないんだって、そう思ったんだよ」


 苦しそうな表情と吐き出すような言葉だった。

 リンは違和感の正体に気がついていた。達哉はとっくに思い出していたのだ。けれど、それにしても達哉の言っていることは分からなかった。


「どういうこと!? 全然分かんないよ!! たっちゃんのしたことって? 見捨てたことなら、それは、しょうがなかったって——、」


「そうじゃない!! しょうがなくなんかないんだよ!!」


 悲痛な叫びだった。


「たっちゃん。大丈夫?」


 慈しむように優しく声をかけたのは、紗雪さゆきだった。黙ったままの達哉の背中に雅臣まさおみ弘大こうだいが手を当てる。


「俺が始末をつけなきゃいけないのは、リンのことなんだ……」


「あたし!? あたしがなんだっていうの!?」


 あの日、大野真凛を見捨てて秘密基地を立ち去ってしまったこと以外に、達哉のに心当たりはない。ましてや、自分が関係しているわけがない。達哉にしてもらったことこそたくさんあれど、何かをことなどない。

 ふと、リンは大野真凛に目を向ける。向こうもこちらを見ていると思っていたが、ただ空虚に、リンのいるあたりをぼんやりと眺めているだけだった。


「リン。お前、死にそうになったこと、あるだろ?」


 思いもしない角度からの質問に、リンはまた首をかしげる。否定というよりも、瞬時には質問の意図が理解できなかったから出た仕草だ。

 死にそうになったことならたくさんある。野良で暮らしていると、危険とは常に隣り合わせだった。


「まだ、お前がほんの子猫のとき……お前、川に落ちて溺れたことがあるだろう?」


「ある……けど……」


 リンは混乱する頭でかろうじて、短く答えた。


「俺の、せいなんだ」


「えっ!? どういうこと?! だって、あのときたっちゃんは、助けてくれたじゃない……」


 リンは、まだ足元もおぼつかない子猫のときに川に落ちて、死にかけたことがある。そのとき助けてくれたのは、他でもない達哉だった——、とリンは記憶している。しかし、達哉はそのときのことを指して、と言っているようだ。

 リンの頭はさらに混乱する。


「俺のせいで、お前は川に落ちたんだよ。助けたのも……俺じゃない……」


「えっ!? えっ……? だって……あのときは、たっちゃんがいて——、」


 言いかけたところで、当時の光景がフラッシュバックする。

 突然、割れる足元。ふわりと浮く身体。スローモーションになる景色——。

 見上げると、さっきまでリンが踏みしめていたはずの地面が割れ、青い空が見えていた。ずぅんとお腹のあたりに臓器が持ち上がるような不快感があった。

 そして、「やった!!」というリンのよく知る声が聞こえた。


 何が起きたのか、すぐには分からなかった。おそるおそる下を見ると、そこには絶望が広がっていた。川は、決して荒れ狂っているわけではないが、体の小さなリンがいくら抗ってもどうにもできないことが、そこに飲み込まれるてしまう前から分かる。

 絶望を認識した途端、時間は元の速さで動き出した。

 控えめな、ドボンという音とともに、冷たい水の感触が全身を支配した。それまで当たり前に吸えていた空気が遠い存在となる。新鮮な空気を欲して、いくらもがいても、口に広がるのは苦く不快な水の味だった。


 ごぉぉぉぉという水音の向こうで囃し立てるような声がする。


 必死でもがいていたのも最初のうちだけで、次第に身体から力が抜けていった。諦めてしまったわけではないが、自分の力ではどうすることもできないことを悟った。

 抗いがたい自然の力の存在を短い野良猫生活で嫌というほど知っていた。

 遠くなっていく意識をなんとかつなぎ止めながら、自然の力に身を任せていると、明らかに自然のそれとは違う力に引き上げられるのを感じた。


「うわぁ……。猫………………?」


 リンの意識は、そこで完全に途絶えてしまった。



 気が付くと目の前に達哉の顔があった。どこか困ったような顔の達哉は、「生きてる……?」とだけ言った。


 リンはこのとき、心の底から達哉に感謝した。


 危険な野良猫生活でも、あのときほど死に近づいたことはない。そこから救い出してくれた達哉には、返しても返しきれない恩がある。そう思ってずっと暮らしてきた。しかし、達哉はそうじゃないと言う。


 けれど、気が付いた。地面が割れたときに聞こえた嬉しそうな声。あれは達哉の声じゃなかったか。

 川から引き上げられたときに聞こえた声。あれは——。


「お前は、俺が作った罠にかかって川に落ちたんだよ……」


 達哉の声と表情は、後悔と苦悩に満ちて、痛々しく沈んでいた。

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