第47話 望んだこと

 翌日、リンは大野真凛おおのまりんのもとを訪れていた。

「二度と行かない」と宣言しておきながら、のこのこと訪ねて行くことには多少の抵抗があったが、それ以上に強く背中を押すものがあった。

 その理由を、リン自身もよく分かっていない。ただ、この世界でリンが感じた胸騒ぎには、必ず大野真凛が関与しているはずだという根拠のない、野生の勘に基づく理屈がリンの中には確かに存在していた。

 リンは、その勘に素直に従っているだけだった。


 大野真凛の家に着くと、迷うことなくインターホンを鳴らした。数秒で聞いたことのある声がスピーカー越しに聞こえてくる。


「はぁい。どちらさまですかぁ~」


 妙に間延びした甘ったるい声は、大野真凛のものだ。リンは、少しだけ緊張しながらその声に応える。


「えっと……リンだけど、マリン?」


「なんだぁ~。リンか。もう、ウチには来ないんじゃなかったのぉ?」


 くすくすと含み笑いを交えながら、大野真凛は揶揄からかうように言った。


「気が変わったの!」


「気が変わった、ねぇ……。まぁ、いいか。どうぞ、開いてるから勝手に入ってきていいよ」


 言われたとおり、手をかけると、鍵のかけられていない扉はあっさり開いた。

 何度も訪れたことのある家だから、部屋の場所はある程度分かっている。階段を上がってすぐの部屋に入ると、予想どおり大野真凛はそこにいた。最後に別れた時と同じ、子供の姿でベッドに寝転んでいる。

 窓際には、まるでリンがもともと猫であったことを思い出させるかのようにマリンブルーの水受けが置かれていた。


「それでぇ? なんで来たのぉ? 何か用?」


 ぶっきらぼうに言う大野真凛の手のひらには、弘大の指輪が乗せられていた。弄ぶように転がしたり、放り投げては手のひらで受け止めたりを繰り返している。


「それっ——!?」


 リンは思わず叫んでいた。弘大の指輪が、大野真凛の手にあるのを見つけると、リンの中を走る胸騒ぎは一段凄みを増した。


「あぁ……これ?」


 リンの胸の内を知ってか知らずか、大野真凛は挑発的な目を向ける。偶然拾ったものではないことは明らかだ。大野真凛は、明確な意思を持ってその指輪を手にしている。

 リンは、そう思うと大野真凛に向かって駆け出していた。

 人間の身体は、猫のころのようにしなやかには動かないけれど、それでも精一杯全力で向かっていく。リンの行動が予想外だったのか、大野真凛は一瞬目を大きく見開くと、指輪を奪われまいとして体をひねった。それでもリンの伸ばした手が、数舜早く大野真凛の手首をつかむ。


「痛っ……」


 よほど痛かったのか、大野真凛は悲鳴にも似た声をもらして思わず、といった様子で手を開いた。落下していく指輪をリンの手が受け止める。


「どうして、マリンがこれを持ってるの!?」


 リンは興奮したまま大野真凛を問い詰めた。


「別に……。過去ここに来た時にはもうあったよ。昔の私が盗ったんじゃないのぉ? そんな記憶も、うっすらあるかなぁ」


 大野真凛は悪びれた様子もなく肩をすくめる。


「盗んだってこと? 人間の社会では、他人のものを盗んでもいいわけ?」


「いけないこと、かもぉ? でも、ずっと昔に盗んで、不本意ながら泣く泣く返したものが、また手元にあったってだけだもん。何かを言われる筋合いはないよぉ。一回私は返してるんだよ? に、ね」


 妙におどけながら、最後の言葉を強調するように言った。「お前も死んでいるのだ。そのことを忘れるな」と脅迫しているようだった。

 だからどうしたというのだ、とリンは心の中で抗う。声に出せなかったのは、死を認め、向き合うのが怖かったからなのかもしれない。

 黙っているリンに向けて、大野真凛はなおも語り続けた。


「それさぁ~、ぱっと見は冴えない何の変哲もない指輪じゃなぁい? でもね、私にとってもだいじなものなんだよ。それが私の運命を決めたって言ってもいいくらいにね」


「どういうこと?」


 弘大の指輪と大野真凛に深い関係があるとは思えなくて、思わず尋ねる。

 大野真凛は何がおかしいのか、くすくすと笑い出した。


「それが手元にあると、浅川くんが構ってくれるの。それを持ってると毎日のように話しかけてくれて……。嬉しかったなぁ~」


 大野真凛が浮かべる恍惚の表情の裏に得体の知れない闇が見え隠れする。リンは「狂っている」と思った。大野真凛の思考は、リンの想像のはるか外側にあるように思えた。

 それは大野真凛が人間で、リンが元猫だからというだけが理由ではない。大野真凛はリンの知らない世界で生きている。いや、生きていた。


「だから、今もこうちゃんから盗んだものって分かってて、返すことなく持っておくつもりだったの?」


 辛うじてリンの口から出た言葉は、当たり障りのないものとなった。


「そうだよぉ。そうすれば、また浅川くんとたくさん話せるでしょ?」


 言葉の割には、指輪に執着しているようには見えなかった。リンが内心疑問に思っていると、大野真凛は自らその答えを明かす。


「もう、別にいいんだよ。計画を早めるつもりだから。私は、浅川くんに看取られるの。薬品臭い病室じゃなくて、浅川くんの大好きな場所で、浅川くんの大好きな人に囲まれながら、安らかに死ぬの。考えただけで素敵なことだと思わない?」


 リンは大野真凛の黒目の奥にある得体のしれないものを再び感じた。恐怖のあまり身震いする。一度飲んだ息を吐きだすのが難しかった。


「それが……マリンの望み……なの?」


「何言ってるのぉ? 私の望みでしょ~?」


 ようやく出た声に、大野真凛はあっけなく答える。それにリンは首を振った。


「違う!!」


「違わないよぉ。私は復讐。あなたは——、リンだって、私にあの時あの場所で死んでほしかったんでしょ? それにあなたは、浅川くんのこと——、」


「違う、違う……。あたしは……」


「いいんだよ。私だって死にたいと思ってたんだし。なのに、あの時は余計な邪魔が入ったせいで中途半端に終わっちゃった。今度は、絶対に失敗しないよ。リン。今度はあなたもちゃんと協力してね」


 大野真凛の黒く濁った目が、リンを捉える。


「私、気がついたの。あの時上手くいかなかったのは、リンがちゃんと協力してくれなかったからだって。浅川くんだけが、私を助けようとしなかった。でも、本当はあなたも分かっていたでしょ?」


 何かに取り憑かれたように語り続ける大野真凛に、リンは何も答えることができなかった。そんなことはない、と否定したい気持ちがある一方で、図星を突かれたような居心地の悪さが全身を包んでいく。


「あなたも浅川くんの目の前で、私に死んでほしいんでしょ?」


「そんな……死んでほしいなんて……」


 ようやく出た声は掠れ、消えていく。

 大野真凛は、それまでとは少し声音の違う強い口調で言った。


「あなた《が》望んだんでしょう!? じゃなきゃ今、こんなふうに私にチャンスは巡ってきてない。だから、あなたには協力する義務がある。その義務を果たしなさい。じゃなきゃ……私はあなたを許さない。絶対に許さない」


 反論は受け付けないとばかりに断言されると、リンは曖昧にうなずくことしかできなかった。

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