第40話 死後に見た夢

 気が付くと、リンは、真っ暗な空間をゆらゆらと揺蕩たゆたっていた。目を開けていないのに、不思議と自分を包んでいる空間の様子が分かった。


 自分は死んだのだろう。——死んだはずだ。


 予期したとおりなのだから、驚きはない。むしろ、死後と思われる世界が存在することのほうに驚く。


 試しに目を開けてみようか。そう思って、恐る恐る、ゆっくりと自分のものとは思えないほど重たい瞼を上げる。完全に開ききっても、その目に映る景色は変わらなかった。

 そこには、瞼の裏と同じく真っ黒な世界が広がっていた。いや、広がっているのかも分からない。

 例えば、薄く手を伸ばしたら、すぐに壁にぶつかってしまうのかもしれない。手の届くほどの距離すら分からないほど、真っ暗だった。


 そして、身体はピクリとも動かなかった。ただ、ゆらゆらと何もない、何も見えない空間に漂うだけ。上も下も右も左も分からない。無重力というものなのかもしれない。

 ということは、宇宙にいるのだろうか。死んだらみんな宇宙に飛び出すのだろうか。そういえば、死んだら星になると聞いたことがあったっけ。リンの頭にそんなメルヘンチックで呑気な考えが浮かぶ。

 目を開けていても開けていなくても同じなら、閉じていようと思った。疲れているのだろうか。やはり、瞼が異様に重たかった。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。見当もつかないが、変化は突然訪れた。

 なんの前触れもなく、閉じた瞼の向こうが白く光った。目を閉じているにも関わらず、さらに瞼をきつく結びたくなるほどの眩い光。

 それと同時にどこかで嗅いだことのある心地いい匂いが、鼻腔を微かにかすめていく。


 光が落ち着くのを待って瞼を押し上げると、そこには大野真凛がいた。最初からいたのか、光とともに現れたのかは分からない。

 さっきまでとは対照的に真っ白に染まった世界に、大野真凛だけが見えた。無表情のままこちらに向かって手を伸ばしている。

 しばらく呆然と眺めていると、大野真凛は呆れたように笑い、リンの横を通り抜けていった。そして、光の奥へと消えていく。

 ——と、再び眩い光がリンを襲った。あまりの眩しさに、リンはまたきつく瞼を閉じた。


 光が再び落ち着くと、リンはもう一度目を開けた。そこには、懐かしい光景が広がっていた。

 そこは、かつて仲良し四人組がたまり場にしていた場所。仲良し人組になることができる場所。そして——、壊れてしまった場所。壊してしまった場所。

 古ぼけた山小屋の、あの秘密基地だった。


 リンは、「あっ」と息を呑む。懐かしい秘密基地にある異物にドクンと心臓が大きく脈を打った。

 そこには、首を吊った大野真凛の姿があった。十年の時を経て、大人になったはずの大野真凛は、どういうわけか実際に首を吊ったあの日のままの姿をしていた。

 唯一違ったのは、あの日よりも一層大げさに笑いながら、縄に揺られているということ。声こそ上げていないが、その顔は芝居がかっており、不気味なほど楽しそうに笑っている。


「これは……夢。死後に見ている夢……?」


 思わずそう呟いてから、今度は自分の耳を疑った。そして、遅れて自分の喉も疑う。


 ——これは、人間の言葉。人間の声。


 にも関わらず、間違いなくリンの口から発せられた言葉だった。


「夢じゃないよ。リン」


 驚きのあまり、口をあんぐりと開けたままのリンに向かって、大野真凛は縄に揺られたまま語りかけた。その声は、喉が潰されているとは思えないほどよく通る声だった。


「真凛……? あなた……どうして……? どうして、ここにいるの? どうして、また……そんなことをしているの? これが夢じゃないなら、なんだって言うの?」


 初めて操る人間の言葉なのに、思いのほか流暢に口から声が飛び出していく。


「あなた、浅川くんにリンって呼ばれていたのね。私は、野良猫に名前を付ける趣味はなかったけれど……。でも、それも浅川くんらしいなぁ~」


 目の前の大野真凛は、確かにあの日と同じ姿をしていたが、その口ぶりは妙に大人びていた。


「そうそう。あなた、十年もの間、私のお見舞いに来続けてくれたんだね。おかげで、こうして付いてくることができたよ」


「ど、どういうこと?」


 言っていることがよく分からない。混乱する頭をフルに働かせても、ちっとも分からない。

 自分は、死んだのではなかったのか。

 そうだ。そもそも自分は死んだはずなのだ。それが一体どういうことだろう。大野真凛の存在以前に、自分の存在すらもよく分からなくなる。


「あなた、猫だったのにそんなことも分からないの?」


 猫

 そう言われて、何の気なしに自分の身体を見る。そして、今度は悲鳴を上げてしまいそうなほど驚いた。リンの手が、足が、身体が、完全に人間のものになっていた。


 リンは、人間になっていた。


「アタシ……」


「あなたの力でしょう? 猫の持つ不思議な力。あなたが死ぬことで、それが発動したんじゃないの?」


 大野真凛は、リンよりもよっぽど状況を理解できているようだった。

 たしかにそうだ。たしかに、自分は猫だったはずだ。今もまだ、猫だったころの感覚が残っている。


「今のこの状況を作ったのは、……アタシの力?」


 俄かには信じられなかった。

 仮にそうだとして、それでもなお今の状況はよく分からない。自分は人間の姿になって、大好きな秘密基地にいる。その秘密基地では、大野真凛があの日を再現するかのように首を吊っている。


 大野真凛さえ——、


「——私さえいなければ、最高のシチュエーションだって、もしかして、そう思った?」


 リンの思考の先を読み上げるように、大野真凛は突然語気を強めた。


「あなたは、あなたの望みを叶えようと力を使ったの。きっとね。そこに、私もちょっとだけお邪魔させてもらったわけ。あなたが、私の隣で死んでくれたおかげだよ。あなたが死ぬのとほとんど同時に私も死んだの」


 それがどういうことなのか、リンにはよく分からなかった。よくは分からなかったが、大野真凛がリンの邪魔をしようとしていることは分かった。


 リンの望みは、壊してしまったものを直すこと。置いてきた大切なものを取りに戻ること。大丈夫。忘れていない。ちゃんと覚えている。

 リンの壊してしまったものの中には、大野真凛も含まれている。しかし、目の前の少女は、どうやらそれを邪魔しようとしているらしい。


「ねぇ、いい加減下ろしてよ」


 唐突に語調を変えて、大野真凛は言った。


「苦しくはないんだけどね。あのときの完全再現とはいかなかったみたい。そもそも浅川くんがいないものね」


 つまらなそうに口をとがらせる。縄に吊られてさえいなければ、かわいげもあったのだろうが、その姿は不気味以外のなにものでもなかった。


「ねぇ、下ろしてくれないの? あのときと違って、今はできるでしょう? 一人でもできるわよ」


 リンは、まるで操られているかのように、促されるままに大野真凛を縄から下ろす。

 あの日、リンと達哉が参加しなかった作業を今はリン一人でおこなっている。何か皮肉めいたものを感じながら、慎重に縄を解いていく。

 完全に下ろしきると、大野真凛は地面の感触を確かめるように、二、三回足踏みをした。

 その瞬間、大野真凛の身体が少しだけ縮む。髪型もより幼く、変化した。


 ピタリと動きを止めるころには、小学五年生の大野真凛になっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る