第41話 帰る家

 この短時間で、何度驚いただろう。

 リンは、またもや自分の目を疑った。ついさっきまで、あの日——、首を吊った日と同じ姿をしていた大野真凛おおのまりんは、あっという間に姿を変えていた。より正確には、少しだけ若返ったことになる。


「はぁ~……。やっぱりこのころになるんだぁ~」


 大野真凛は、まるでそうなることを予想していたかのように浅くため息を吐いた。


「まぁ、しょうがないよね。たぶん、私がただ純粋に浅川くんのことを好きだったころだから……」


 大野真凛は、何かに納得したようだった。確かめるように身体と顔に触れる。最後は髪の毛を一束掴むと、「へぇ、このときは結構伸ばしてたんだぁ」と懐かしんだ。


「真凛。どういうことなのか説明してよ。何が起きているの? あなたのその姿……。それにアタシは、なんで……。なんで、こんな……。なんで、人間の姿になってるの?」


「えぇ~? そんなになんでなんで言われても知らないよぉ」


 大野真凛は、めんどくさそうに言った。もう目的は遂げたとばかりに、リンと目を合わせることもなく、無関心だった。


「誤魔化さないでよ。さっきは知ってる風だったじゃない。猫の力とかなんとか言ってた」


 リンは、それでもめげることなく大野真凛を問い詰める。


「知らないよ。誰もがどこかで聞いたことあるようなことでしょ? 適当に言っただけだよ。でもさ、猫には本当に不思議な力があるんじゃないの? 猫だったんだから、リンの方がよく知ってるんじゃない?」


「知らないから訊いてるんじゃない!! 真凛はさっき、アタシが真凛のそばで死んだから付いてこれたって言ったよ。アタシはアタシの望みを叶えようと力を使ったんだとも言った。真凛はそれにお邪魔させてもらったとも。これって、何かを知ってる人のセリフでしょ?」


「う~ん、そう? 適当だよ、適当。私が知るわけないじゃ~ん。……っていうか、急に必死すぎじゃない? ちょっと面白いかも……。もしかして、人間になって焦ってる? 猫のままがよかった?」


 大野真凛とは、これほど神経を逆撫でする少女だっただろうか。

 霞みを撫でているかのように全く手ごたえのない反応とリン自身が心のどこかで薄く感じている本心を突く言い方に、リンは次第にイラつき始めていた。

 

 当たり前ではあるが、リンが大野真凛と会話をするのは、これが初めてのことだった。猫のころは、いつも一方的に大野真凛の話を聞いているだけだった。そのときは全く気にならなかった大野真凛の物言いの一つ一つが、今は無性に鼻につく。

 まさか、会話ができることでこれほどストレスに感じるとは、思いもしなかった。

 だが、リンの返答が詰まったのはそれだけが原因ではない。


『もしかして、人間になって焦ってる? 猫のままがよかった?』


 そんなわけない!! と強く否定したかったが、戸惑っているのも事実だった。図星だと思う気持ちもどこかにある。

 大野真凛の言うとおり、自分が持つ猫の不思議な力で今の状況を作り上げたであろうことは、リンも薄々感じていた。

 死ぬ前には、むしろ何か不思議なことが起こるはずだと確信すらしていた。だが、その力は具体的にどのように使い、どのような形で起こるものなのか、全く見当がついていなかった。いざそれが起こってみると、戸惑いの方が大きい。

 まさか、自分が人間になるとは思いもしなかった。たしかに望んだことはある。それでも信じられなかった。

 そして、リンは姿形こそ人間になっているが、外から見たらまるっきり偽物なのではないかと不安に思っていた。


 さらに、戸惑いの原因はもう一つ。大野真凛の存在である。


「黙っちゃってどうしたの? もしかして、図星ぃ?」


「そんなことない!! 別に焦ってなんかない。そうね。あたしは人間になりたいって思っていたのかもしれない」


「ふぅ~ん」


 大野真凛は、一度だけリンに視線を向けると意味ありげに笑った。そして、すぐに背中を向けて、出口に向かって歩いていく。


「まぁ、いいや。とりあえず、私はもう行くね」


「えっ!? 行くって……どこに?」


「当たり前じゃない。家に帰るの。こういう時、行くって言ったら、だいたい家に帰るって意味でしょ? こんなところにいてもしょうがないもん。暑いだけだし」


 言われてリンは、「そうか。当たり前なのか」と思う。

 リンには、毎日当たり前に帰る家などなかった。それをおかしいことだと思ったことはなかったし、達哉たつやたちが自然と家に帰っていくことを特別羨んだり、気にしたこともなかった。

 リンは猫で、達哉たちは人間だったから。けれど、今はリンも人間だった。


 ——そうか。人間には、帰る家があるのか。


 だとすれば、人間になった今、自分の帰る家はどこなのだろうと急に不安になる。

 人間には、帰る家がなければならない。大野真凛にそう言われている気がした。

 人間の姿にはなったものの、帰るところがなければ、それはやはり偽物なのではないだろうか。


「あんたも帰りなよ。……あれ? もしかして、帰る家がないの?」


 大野真凛は足を止め振り返ると、嫌らしく笑った。ここで応えに詰まってしまうと偽物だと認めてしまったことになる気がして、リンは慌てて否定する。


「あるよ。帰るところ。あたしにも、ちゃんとある」


「そう? ならいいけど。猫だったときは、ちょくちょくうちに来てたじゃない? あ、そうだ。また、うちに来る? お部屋なら余ってるし、来てもいいよ」


 大野真凛は嬉しそうに言っているが、リンにとっては不愉快極まりなかった。大野真凛の言葉は、リンの言葉を信じていないからこそ出てくるものだ。だから、リンも意地になって言い返す。


「大丈夫。あなたの家へは、もう二度と行かないから」


 リンが言うのを聞くと、大野真凛はまた薄く笑って、今度こそ本当に秘密基地を出て行った。開かれた扉から、ムワッと夏の風が入り込む。懐かしい匂いだった。

 大野真凛が出て行ってしばらくしてから、リンは達哉の家に行こうと思いついた。もしも、自分に帰る家があるとするならば、それは間違いなく達哉の家だ。そう言い聞かせるようにして、リンは秘密基地をあとにした。

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