第39話 最後の音

 その日、リンは、朝から達哉たつやの家に向かっていた。最後のお別れをするために。

 そこには、十年間変わらない日常があった。

 達哉は、リン専用の器に水を用意して、お気に入りの缶詰も出してくれた。ここ最近はめっきり食欲がなくなってしまったから、完食することはできない。それでも、達哉は、変わらずに同じ調子でリンを出迎えてくれた。

 リンは、乾いた喉を癒して、缶詰を気持ちばかり食べた。本当は食欲なんかなかったけれど、せっかく達哉が用意してくれたものだと思うと、口をつけないわけにはいかなかった。

 それから、リンは達哉の膝の上に飛び乗った。

 チリンと首から下げた鈴が乾いた音を鳴らす。それは、まるで最後の時を告げる合図のようだった。


「なんだ? リン。お前、軽くなったんじゃないか?」


 達哉の問いかけに、リンは「そうかもしれない」と思った。このところ強い風に煽られて、まともに歩くことができないということが増えた気がする。

 ——そうか。あれは、自分の身体が軽くなったからなのか。と妙に納得した。


「ちゃんと飯食ってるか? ほら。缶詰、残してるじゃねぇか。そんなんじゃダメだ。ちゃんと食えよ」


 達哉の気遣いが嬉しかった。

 今日だけじゃない。出会ったときから、達哉はいつだって優しかった。

 リンは、今までのお礼も込めて一度「にゃおん」と鳴く。ガラガラにかすれて伸びのない声だったが、思いが伝わったのか、達哉は掠れた声に応えるように優しくリンの頭を撫でた。


 リンは、ふいに思い出した。


 ——思いは、伝わる。


 だとすれば、自分が今日死んでしまうことも、バレてしまうのではないだろうか。今日は、ずっと、達哉とさよならしたくない——、とそんなことばかりを考えている。

 今の鳴き声にそんな想いが乗ってしまってはいないだろうか。それは困る。達哉には、胸の内を知られたくなかった。

 慌てて余計な考えを頭から打ち消そうとするが、どうやら杞憂だったようだ。達哉は、その後もいつもどおり、リンに語りかけ、優しく包み込むように抱いてくれた。


 リンは、こぼれそうになる涙を懸命にこらえながら、達哉の手の感触を——、顔を——、声を——、匂いを——、達哉のすべてを魂に刻み込むように記憶に焼き付けた。

 出会ってから、今日までのことを思いだす。

 楽しかったことも、嬉しかったことも。自分が達哉に——、仲良し四人組にしてしまったことも。いいことも悪いことも、どれも決して忘れない。

 達哉がリンのことを忘れてしまったとしても、リンだけは、どんな姿になったとしても、たとえ姿が無くなってしまったとしても、絶対に忘れないでおこうと思った。


『目の前の私のことを忘れないで。何があっても忘れないで。それだけが今の私の望み』


 大野真凛おおのまりんの言葉を思い出す。

 リンは死を目前にして、その言葉の意味を理解できたような気がした。あの言葉は、やはり大野真凛がかけた呪いだ。達哉に、リンに、そして、仲良し四人組にかけた呪い。その呪いは、きっと大野真凛自身にもかかっている。

 中でも達哉は、その呪いに強く縛られてしまった。

 達哉は、きっとこの十年間、一瞬も大野真凛のことを忘れたことはないのだろう。それは、大野真凛の思惑通りなのかもしれない。それこそが、彼女の呪いの本質なのかもしれない。自分本位で、自己中心的な大野真凛らしい呪いだと思う。

 達哉は、そんな呪いなどお構いなしに、大野真凛のすべてを忘れてしまってもよかったのだ。むしろ、忘れるべきだったのかもしれない。

 けれど、優しい達哉にそれはできないだろうなと思った。大野真凛は、そこまで織り込み済みで呪いをかけたに違いなかった。


「真凛。今なら言えるよ。それは、間違っている。あなたが覚えていれば、それでいいじゃない」


 リンは、その場にはいない大野真凛に向けて、そう語りかけていた。

 死期を悟って初めて知った、生きるということ。

 自分の前から大切な人が消えたとしても、そして、自分自身が消えてしまったとしても、自分の思いは、思念は、記憶も、感情も、すべて残り続ける。

 誰かに覚えていてもらえなくたっていい。自分が覚えてさえいれば、いつかまた、それを拾いに来ることができる。

 大切なものを人に預けてはいけない。大切だからこそ、残す。残したことを忘れない。そして、いつかそれを取りに戻るのだ。生きることと死ぬこととは、つまりはそういうこと。

 いつの頃からか、リンは、強くそう信じるようになっていた。


 最後にリンは、こっそり首の鈴を外して、達哉の家に残したまま達哉の家を去った。

 名残惜しいけれど、振り返らない。十分刻み込んだ。

 絶対に忘れない。絶対に取りに戻る。そんな誓いとともに、大野真凛のいる病院に向かう。




 病室には、十年間ほとんど変わらない姿のまま、大野真凛が横たわっていた。しかし、よくよく観察すれば、身体のところどころに確かな変化が見られる。食事をしているところを見たことはなかったが、十年前よりも身体つきがふっくらしたようにも思える。

 大野真凛もまた、達哉と同じように十年分年を取って、大人になっていた。


 規則正しく鳴る機械の音と、大袈裟な呼吸音だけが静かな病室内に響いている。

 初めの頃は大嫌いだったそれらの音には、もう慣れてしまっていた。薬品の匂いや、時折聞こえる救急車の音にも自然と慣れた。リンが、望もうと望むまいと。


「真凛。アタシはもうすぐ、死ぬ。死んでしまうの」


 リンは、物言わぬ少女に語りかける。十年間で初めてのことだった。


「償いはするつもりだよ。あなたは、間違っていた。それをアタシは教えてあげるべきだった」


 声にならない声で横たわる少女に語りかける。

 リンはもう顔を上げることも、目を開けることもできなくなっていた。それでも大野真凛に語りかける。


「アタシが壊したものは、アタシが直す。どういう風に? って訊かれると困っちゃうけど……必ず、直す」


 意識があるのかないのか、自分でも分からない。そんな状態で最後の言葉を紡ぎ出す。


「真凛。あなたは、間違っている」


 リンが最後の力を振り絞って、目をほんの少しだけ開くと、大野真凛は微かに顔を歪め、苦しんでいるように見えた。いや、もしかしたら笑っているのかもしれない。

 そんなはずはないのに——。リンには、もう本当に見えているものなのか、空想のものなのか分からなかった。

 コツンと床を叩く音が聞こえる。それとほぼ同時に「ピーーーー」という、それまで聞いたことのないヒステリックな機械音が鳴り響いた。

 

 それがこの世で聞いた最後の音になった。

 リンの意識は、そこでプツリと途絶えた。

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