第38話 残された時間

 仲良し四人組が壊れてしまってから、随分と長い時間が経った。 

 大野真凛おのまりんが首を吊った日から、もうすぐ十年が経とうとしている。


 リンが自分に起こった異変に気が付いたのは、ほんの些細なことがきっかけだった。


 気が付くと、それまで楽々登れていたはずのそれほど高くもない壁に登れなくなっていた。

 初めは、少し調子が悪いのかなと思う程度だった。だが、それ以外にも、走るとすぐに息が切れたり、全身を覆う毛に潤いを感じられなくなったり、目が心なしか見えにくくなっていたり——。

 そんな小さな変化を感じながらも、相変わらず達哉たつやの家には頻繁に通っていた。


 仲良し四人組の誰かが訪ねてくることは、もうほとんどない。それは悲しいことではあったが、達哉がみんなにとる酷い態度を目の当たりにしなくて済むと、どこかホッとする気持ちもあった。


 あるときリンは、達哉が初めて会ったときよりも大きくなっていることに気が付いた。身体つきは逞しくなった。出会ったころは、生えていなかったはずの髭が生えてきたり、それに匂いも変わった。

 リンは、また達哉が達哉でなくなってしまうような気がして戸惑ったが、偶然訪ねてきた達哉の親戚の言葉で合点がいく、と同時に安心した。


「たっちゃんもすっかり大人になっちゃって」


 確かにリンにも子猫だったころがある。猫であるリンの成長は、人間のそれよりも早い。あっという間に立派な成猫せいびょうになった。

 達哉に起きた様々な変化は、つまりは、成長した証。大人になったことの証左だった。達哉もリンに遅れて大人になっていた。

 しかし、成長が早いということは、老いるのも早いということ。猫の寿命は、十六歳くらい。それはあくまでも飼い猫の寿命であって、半野生はんやせいで生きるリンの寿命は、もう少し短いのかもしれない。

 いずれにしても、リンはすっかり老猫おいねことなっていた。

 リンが感じた異変の名は、老化だった。


 その事実に気が付いてからしばらくして、リンは自分の命がもうそう長くはないことを悟った。


 死を目前にして、リンには、蝉の声を聞くと色の濃くなる後悔があった。それは、十年前のあの日のこと。十年経っても、決して薄まることのない強烈な後悔が、リンにはある。


 あの日、達哉たちを秘密基地に連れて行かなければ——、仲良し四人組は、壊れなかったのではないか。

 ——仲良し四人組を壊したのは、大野真凛じゃない。自分だ。


 あの日、首を吊ることを知っていながら、大野真凛を野放しにしなければ——、引っ掻いてでも、噛みついてでも、止めていたら——、大野真凛は死んだも同然の姿にはならなかったのではないか。

 ——大野真凛を壊したのは、達哉じゃない。自分だ。


 リンは、いつしか蝉の声が嫌いになっていた。あんなに楽しみにしていた夏も、ただ暑いだけの不快な季節になっていた。


 リンもまた、四人と同じように十年間ずっと苦しみ続けていた。皮肉なことにそれが仲良し五人組の共通項となっていた。


 この十年間、リンには達哉の家以外に頻繁に訪れる場所があった。大野真凛のいる病室だ。

 医者や看護師、それから母親の努力の甲斐もなく、あの日以来、大野真凛が目を覚ますことはなかった。

 脳に深刻なダメージを負っていると漏れ聞いたことがある。リンには、具体的にどういう状態なのかは分からなかったが、首吊りが原因であることは確かだろうと思った。

 リンのほかに見舞う者は、大野真凛の母親しかいなかった。大野真凛の母親は、いつ行っても必ず大野真凛のそばに寄り添っていた。リンは、いつも母親がいなくなる隙をついて、大野真凛の元を訪れていた。

 もしかしたら、母親にはリンの存在がバレていたのかもしれない。そう思う節がないわけではなかった。


 リンが頻繁に病室を訪れたのは、罪悪感や後悔の念からだ。

 しかし、理由はそれだけではない。初めて達哉と病室を訪れた日に感じた使命感もまた、リンが病室を訪れる理由となっていた。

 この十年間ずっと、漠然としたままだった使命感は、自分の死期を悟ったころから輪郭を持つようになっていた。リンは、それまでずっと、自分に根付いたこの使命感は、命が続く限り、自分が壊したものに懺悔し続けなければならない、というものだと思っていた。

 しかし、どうやらそれは少し違うらしい——、と思い始めている。その証拠に、いくら後悔し、何度懺悔しても、リンの中にある使命感が達成感に変わっていくことはなかった。

 リンに根付いた使命感は、懺悔や後悔によって昇華されるようなものではなかった。

 リンは、自分の死期を悟ったことで、ようやくそれが分かった。

 リンのなすべきことは、後悔や懺悔をすることではない。責任を取ることだ。具体的にどうすればいいのかは分からなかったが、壊したものを自分の力で直す。それが、リンのすべきことだ。


「猫には不思議な力がある」と聞いたことがある。自分にそんな力があるとはとても思えなかったが、死ぬ間際になって発揮されるものだと何故だか確信していた。

 猫が持つ本能の一種なのかもしれない。


 ——死に場所を選ばなければならない。


 どこで死ぬのがいいだろう、と考えて、思いついたのが大野真凛の病室だった。

 達哉のそばや、秘密基地という選択肢もあった。

 しかし、達哉に自分の死体を見られたくない、大切な場所で誰かを死なせたくないと思って行動したのに、自分がそこで死んでは本末転倒だという理由で、それぞれの場所を却下した。

 死に間際に何らかの力が発揮されるとして、そこに大野真凛がいるのは都合がいいように思えた。それに大野真凛のそばであれば、少なくともリンに馴染みのある人間に死体を見られることはない。誰かに自分の死体を見られること自体、あまりいい気分ではないが、そこは我慢することにした。


 死に場所を決めてからは、それまで以上に頻繁に病室を訪れるようになった。

 その分、達哉の家に行く機会が減るのは寂しかったが、それも自分のなすべきことのためと思って我慢した。


 そして、ある日、リンは唐突に自分に残された時間が、あと一日しかないことを、その鋭すぎる野生の勘によって知った。

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