第37話 掛け違えたボタン

 大野真凛おおのまりんの病室を訪れて以降の達哉たつやに、大きな変化はなかった。ないように思えた。ないと思っていた。

 もしかしたら——、ないと思いたかったのかもしれない。

 それほど、あの病室での達哉は異常で、空恐ろしかった。


 達哉は、相変わらずあまり外に出ることはなかったが、それでもリンが訪れると笑って出迎えてくれていたし、優しく語りかけてもくれた。

 だから、達哉の中に起こった大きな変化に気が付き、それをまともに直視しようと決心がついたのは、だいぶ時間が経ってからのことだった。


 夏休みだというのに、大野真凛が首を吊った日以来、仲良し四人組が集まることは一度もなかった。

 それでも各人が、個別に達哉の家を訪ねてくることはあった。そんなときの達哉は、言葉にこそしないものの嬉しそうだった。

 用件は、夏休みの宿題を手伝うとか、母親が作りすぎた煮物のおすそ分けだとか、取って付けたようなものばかりだったが、本当はみんな達哉のことを心配しているのだと思うと、リンも嬉しかった。仲良し四人組の関係が、完全に壊れてしまったわけじゃないと分かって、安心した。まだ直せるのだと、このときは思っていた。


 自分からみんなの元を訪ねて行ったり、「また集まろう」と言ったりすることこそなかったが、達哉が、訪ねてくる紗雪さゆき弘大こうだい雅臣まさおみを邪険にするようなことはなかった。そんな達哉を見て、リンは元どおりの仲良し四人組——、いや、仲良し人組に戻るのは、時間の問題だと思っていた。


 達哉もそう思っていたのだと思う。あの手紙に招かれて、大野真凛の病室を訪れるまでは——。


 一度掛け違えたボタンは、どんなにこんがらがっていても、ゆっくり丁寧にほぐして外せば、また元どおり正しくかけなおせるはずだった。

 しかし、それは間違っていた。

 ボタンは掛け違えてしまっただけでなく、掛け違えたまま癒着してしまっていた。簡単には剥がれない。ボタンホールまで、強力な接着剤で接合されていた。剥がすためには、心も少し削り取られてしまうだろう。それには、きっと猛烈な痛みが伴う。

 いつのまにか。気が付かないうちに。誰もそんなこと望んでいないはずなのに。意思を持った何かに命じられたかのように——。


 それは、間違いなく呪いだった。



 その日、達哉の家にやってきたのは、紗雪だった。

 もともと妹の夏菜子かなこと仲が良いこともあって、三人の中で達哉の家を訪れる頻度が一番多かったのが紗雪だ。リンがいないときにも訪れていただろうから、その頻度はそれなりのものだっただろう。リンの次くらいに多いはずだ。


 インターホンの音だけで、リンは紗雪が訪ねてきたと分かった。みんなのことなら気配やほんの些細なことだけでも十分に分かる。そのはずなのに、達哉の大きな変化にはすぐに気が付くことができなかった。

 インターホン越しに紗雪の声が聞こえると、達哉は、表情を曇らせた。嬉しそうとは程遠い顔だった。


「はい。なんの用?」


 棘のある達哉の声に、インターホンの向こうで紗雪が一瞬、息をのんだ。


「えっと……。用ってほどじゃないんだけど。たっちゃん、何してるかなって……」


「別に。何もしてねぇよ」


「そ、そっか……」


 それ以上言葉を発しない紗雪に痺れを切らしたのか、達哉は冷たく言い放つ。


「用がないなら、もういい? 切るよ」


「ちょっと、待って!! 用っていうか……ちょっと……その、お話したいことがあって……。おうち、入っちゃダメ?」


 紗雪は、早口でそう言った。

 お話ししたいことというのは、おそらくは、その場で咄嗟に考えた口実なのだろう。あからさまな拒絶にあったのだから、そのまま引き返してもよさそうではあるが、達哉の態度が紗雪を余計に心配にさせた。

 なにしろ同級生を見殺しにしようとしたのだ。望んでしたことではないとはいえ、紗雪自身もそれに加担している。心にかかる負担は、よく分かっていた。

 しかし、健気にも思える紗雪の言葉に、達哉は眉間にしわを寄せた。それだけではなく、肩をすくめ、身体をこわばらせ、舌打ちまでしてみせた。そこに表れていたのは、明らかな嫌悪感だった。


「……………………分かった。入れよ」


 長い沈黙のあとで短くそう言うと、インターホンの通話を切る。


「めんどくせぇな……」


 呟くように達哉が言うのを聞いて、ようやくリンは達哉の変化を理解した。本当は、もう少し前から分かっていたのだが、分かりたくなかった。そんな気持ちが、理解を遅らせていた。


「……で? 話ってなに?」


 玄関先で紗雪を出迎えた達哉は、そこから先には一歩も入れるつもりはないようだった。紗雪の方もそれを敏感に察知してか、靴を脱ごうとしない。


「……うん。えっとね……う~んと……」


「なんだよ。自分から訪ねてきたんだろ? さっさと話せよ」


 言いよどむ紗雪を、達哉は容赦なく責める。達哉が紗雪にこんな態度を取るのは、初めてのことだった。


「ごめんね。えっと……。たっちゃん、宿題って……やってる?」


「はぁ?! 宿題ぃ? お前には関係ねぇだろ。大きなお世話だよ。話ってそんなことか?」


「……ごめん」


 何とか絞り出した言葉を冷たく拒絶されて、紗雪はいよいよ涙ぐんでいた。それでも、帰ろうとする様子はない。

 今、ここを離れてしまったら、取り返しのつかないことになると感じているようだった。だから、紗雪は懸命にその場に留まろうとしていた。

 それをあざ笑うかのような達哉の言葉が、紗雪に襲いかかる。


「用がないならさっさと帰ってくれ。悪いけど。俺の方から話すことはないから」


 クルリと背中を向ける。その背中に向けて、紗雪が言った。


「待って!! えっと……。えっと……。たっちゃん! お願い」


「なんだよ。用もねぇのに人の家に来るなよ」


 ズキンとリンの心が痛んだ。用もないのに達哉の家を訪ねているのは、リンも同じなのに、紗雪だけが拒絶されている。

 今日の達哉は、どうしたというのだろう。仲良し四人組の誰かが訪ねてくると、なんだかんだ言いながらも嬉しそうにしていたはずなのに。


「…………かなちゃん……は? かなちゃんは、どうしてる?」


「なんだって!? なんだよ!! 結局、夏菜子あいつに会いに来たんじゃねぇかよ。俺を出汁に使いやがって!! 夏菜子あいつはいねぇよ!! もう、いいから帰れよ!!!!」


 本当は逆だ。とリンは思った。そう思って一度鳴いたが、誰の耳にも届かない。

 紗雪は、夏菜子を出汁に、達哉を引き留めようとしたのだ。しかし、それは完全に裏目に出てしまった。崖っぷちに追い詰められて、正常な判断力を無くした紗雪が、藁にも縋る思いで口にした言葉は、達哉の逆鱗に触れてしまった。


 ひととおり怒鳴った達哉は、紗雪とリンを残して家の奥に引っ込んでしまった。

 残された紗雪は、しばらく呆然としたあと、ほどなくしてリンに気が付くと、優しく微笑んだ。リンには、紗雪が「ありがとう」と言っているような気がした。

 それから紗雪は、リンに向けて小さく手を振って帰って行った。その目からは、最後まで大量の涙がとめどなくあふれ続けていた。


 この日以降も、紗雪は何度か達哉の家を訪ねたのだが、同じように邪険にされ、追い返されていた。それでも、紗雪はめげることなく達哉の家を訪ね続けた。

 達哉は、他の二人にも同じような態度を取っていた。紗雪からある程度聞かされていたのか、二人とも驚きこそしていたが、紗雪ほどの動揺はみられなかった。


 いつのまにか仲良し四人組は、修復不可能なほど壊れてしまっていた。


 もうリンには、どうすることもできなくなってしまっていた。

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