第34話 担保

 リンが気づかずに落としてしまった鈴を、男が黙って拾い上げる。

 落とし主の方へ顔を向けると、何かを諦めたように肩を落として、男の前から去ろうとしているところだった。


「お~い! こいつを落としたぞ」


 男の呼びかけもリンには届かない。

 リンは、振り返ることなく、何か重たいものでも背負っているかのように覚束ない足取りで、トボトボと歩いていく。その先をずっとたどれば、そこには男が管理する山小屋があった。

 男は、「あの猫は、あちらから来たのではなかったか」と疑問に思ったが、とにかく落とし物をしっかり元どおり首元につけてやらなければ気持ちが悪かった。何も悪いことをしていないのに、妙な罪悪感を覚えて、男は、リンの背中を追った。


 ほんの数十メートル進んだところで、リンは、気配を感じてふいに振り返る。見ると、男がゆっくりとした足取りで、追いかけてきていた。心なしか少し足を引きずるようにして、不器用に、しかし、しっかりと意思を持ってリンの方に向かって歩いてくる。男は、足があまりよくないようだった。

 よくよく聞けば、リンに向けて何か言っている。決して叫んでいるわけではないが、必死で何かを伝えようとしていた。


「こいつは、お前さんの忘れ物だろう?」


 男の存在に気が付くと、不思議とそれまで耳に入らなかった男の言葉もすんなり理解することができた。そして、男の手につままれた大切な鈴の音も遅れてリンの耳に入る。

 その音を聞いて、リンは、鈴を落としたことにも気が付かないくらい、自分は気落ちしていたのかと情けなくなる。落ち込んでいる暇などないはずだった。必ずなさなければならないことが、一つ増えてしまった。


 ——鈴を失うわけにはいかない。


 鈴を取り戻そうと、男に向かって一歩踏み出したとき、——このまま逃げ続けたら、それでも男は追いかけてくるのだろうか。ふと、そんな考えが浮かんだ。

 試しに、さらに数十メートルほど距離を取って振り返る。すると、男はゆっくりとではあるが、リンとの距離を広げまいと懸命に追いかけてきていた。

 確認するようにもう一度、男から逃げるように少しだけ走る。振り返ると、やはり男は、確実にリンのことを追いかけてきている。


 ——もしかしたら……。淡い期待が、胸に宿る。


 男がどこかで諦めてしまったら、達哉にもらった大切な鈴は、もう二度とリンの元には戻らないかもしれない。そんな不安がないわけではなかったが、リンは男に賭けてみることにした。

 大切な鈴を担保に、大切な場所を守る。

 男を秘密基地まで連れていくことができれば、きっと——。


 リンは、男から離れすぎないように距離をとって、誘導する。男は足を引きずりながらも、リンのあとを追い続けていた。下りるときの倍以上の時間をかけて、山を上る。


 秘密基地にたどり着くと、開け放たれたままの扉から中に入った。

 ついさっき起きた出来事が幻であってほしいと願っていたが、すぐに現実を突きつけられる。そこには、変わらず大野真凛おおのまりんが横たわっていた。


「なんじゃあ……その娘は……」


 リンに遅れて秘密基地に入ってきた男は、すぐに横たわる大野真凛を見つけたようだった。

 リンは、大野真凛のかたわらで必死に声を上げた。


 ——助けてあげてください。

 ——どうか、この子を助けてあげてください。

 ——どうか……。


 リンの思いが通じたのかは分からないが、男はすぐにズボンのポケットから携帯電話を取り出した。


「あ〜、こんなことなら使い方をちゃぁんと聞いておくんだった。こういう時の為に持っとるのに……。たしかぁ~、ここをこうするんだったかいの」


 元々扱い方に慣れていないことに加えて、相当慌てているのか、男は無骨な指先を震わせながら、携帯電話を殴るように操作している。

 助けを呼んでくれるのだとリンにも分かった。


 少しすると、ようやく発信操作ができたらしく、男は携帯電話を乱暴に耳に押し当てる。


「あぁ。救急で間違いないか? 人が倒れとる。早く救急車をよこしとくれ! 場所は……」


 さっきまでの震える手つきとは裏腹に、男は冷静に電話口の相手に状況を伝えていく。


「救命措置ぃ!? ワシは、素人じゃ! できるもんならやりたいが……。あんたらが早う来ることに勝るものはない!! いいから早うこい!」


 男は、あっという間に電話を切ると、リンに近づきしゃがみ込んだ。


「お前さん。ここにワシを連れてきたかったんだな?」


 リンは、それに応えるように一度、「にゃおん」と鳴いた。


「そうか、そうか。飼い主を助けようとしたんだな? 偉いな。大したやつだよ」


 元々しわくちゃな顔をさらにしわくちゃにした男の大きな手が、ワシワシとリンの頭を撫でる。微妙に間違って理解されているようだったが、気にしないことにした。


「そうじゃ。ほれ。これ。お前さんの大事なものなんだろう? しっかり付けておかないとダメじゃよ」


 チリンと気持ちのいい、乾いた音が鳴る。

 男は、達哉たつやがそうしてくれたように、リンの首にその鈴を付けてくれた。

 鈴が無事リンの首元に収まると、二人は並んで座った。どうすることもできないリンの隣で、男もまたどうすることもできないのか、ただ座ってじっと大野真凛を見ていた。


「すまんな。ワシにできるのは、救急車を呼ぶことだけじゃ。救命措置みたいなことを言われたが、ようやらん。こう見えても……怖いんじゃよ」


 言い訳のように言う男が、リンには、何か他のものに詫びているように思えた。もちろん、リンに男の真意を確かめる術はない。だから、せめて黙ってその言い訳を聞いていようと思った。

 しかし、男はそれ以上何も言わなかった。その代わり、手を合わせてぶつぶつと何かを祈っていた。


 救急車が鳴らすサイレンの音が聞こえてくるまでの時間が、とても長く感じられた。男の祈りがなければ、時間が止まってしまったのではないかと錯覚していたかもしれない。しかし、実際は五分と経っていなかった。

 時間はどんなときも、誰に対しても、平等に流れる。


 緊急事態を知らせるには十分すぎるほど不穏なその音は、最初は遠くの方で微かに聞こえているだけだった。それが、次第に大きくなり、すぐ近くでけたたましく鳴って、やがて消えた。


 水色の服を着た救急隊員が数人入ってくると、秘密基地はあっという間に騒々しくなった。

 大声で何事かを叫ぶ救急隊員。慌ただしい足音。ストレッチャーが地面をこする音。


 リンは、大野真凛が運び出されていくまでの間、そのすべてをただ黙って聞いていた。聞いていることしかできなかった。

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