第33話 必死

 リンは、自分に何ができるのか分からないまま、走って、走って——、そして、走った。

 人がほとんど通らない険しい森の中を、混乱する頭を宥めるように、夢中で走り続けた。ついさっき四人を伴って来た道とは違う、一人で秘密基地に向かうときにいつも通る道、リンだけが知っている近道をひたすら麓に向けて駆け下りる。

 ほんのわずかに轍ができているから、人が通ることもあるにはあるのだろう。けれど、リンはその道を通る人を見たことがない。

 この道なら達哉たつやたちを導いた道よりも早く麓に下りることができる——、と咄嗟に選んだ道だった。どうして早く麓に下りたほうがいいと思ったのか、自分でも分からなかった。


 大野真凛の願いは、叶わなかった。どうしてだか分からないが、達哉は目の前で苦しむ大野真凛を助けなかった。助けようともしなかった。まるで、最初から決まっていたことのように、迷うことすらしなかった。

 客観的に見れば、達哉は悪人なのだろう。そして、大野真凛は、かわいそうな少女だ。

 それでもリンは、達哉を信じていた。

 大野真凛が悪い——、とまでは思わないが、達哉がとった行動には、なにか合理的な理由があるはずだ。達哉には、そうしなければならない理由があったはずなのだ。

 そうは思うけれど、その理由がさっぱり分からなかった。


 それは無理もないことだった。


 達哉たちは、リンの前で暗い話をしなかった。リンの前では常に明るく、楽しく振舞っていた。

 それは、リンに対する気遣いもあっただろうが、達哉たちの方がリンを一種の癒しとしていたことも大きい。それは、リンが人間ではないことと無関係ではない。

 人間ではないリンは、達哉たち仲良し四人組以外のコミュニティに参加できない。学校に行くこともない。達哉たちにとっての嫌なことは、だいたい学校の中、学校で形作られるコミュニティの中にあった。そこと無関係なリンは、達哉たちにとって、嫌なことを忘れさせてくれる存在になっていた。


 リンが四人と会うのは、そのほとんどが秘密基地と達哉の家だった。そこは、だれにとっても嫌なことがない、安全で楽しい空間。大野真凛のいない空間。

 リンの方もそこでの四人しか知らなかった。

 小学校の頃には、鬼軍曹と揶揄される恐ろしい先生が君臨していたことも——、いつも一緒にいるはずの四人が、小学校五年生に上がるタイミングで弘大だけ違うクラスに編成されてしまったことも——、そのタイミングで、大野真凛が弘大をいじめ始めたことも——、すべてリンの知らないことだった。


 四人は特に、弘大こうだいが受けているいじめのことを、安全で楽しい空間に持ち込まないようにしていた。

 もともと、いじめのことが四人の間で話題に上がること自体、あまりないことであったし、もし話題にあがるとすればそれは、緊急事態——、つまり、まさにいじめが発生したときの対処を話し合うときに限定されていた。

 だから、リンは仲良し四人組に敵がいることを知らなかった。達哉が、大野真凛を強烈に敵視していることも、その理由も知ることはなかった。


 ——あのまま放っておいたら、大野真凛は死んでしまうかもしれない。絶対に死なせてはいけない。


 それだけが、今のリンにはっきりと分かることだった。


 ——もし、みんなの大切なあの場所で死なせてしまったら、仲良し人組はバラバラになってしまう。


 それだけが、今のリンが確信していることだった。

 次第に頭がクリアになる。色々考えていても仕方がない。自分のすべきことに焦点を絞ると、動揺と混乱でぐらぐらに揺らいだ心が少しずつ落ち着きを取り戻していく。


 ようやく呼吸も落ち着いてきたとき、老齢の男がリンの目に映った。男の姿を確認すると、リンは、その男の前に飛び出していた。

 チリンという鈴の音とともに、男の足元に飛び出すと、男はそれまでしていた作業をやめて、リンの方に視線を落とした。男が手にしているものを見て、ドキンと心臓が跳ねる。

 男はその手に大振りの鉈を持って何やら作業をしていた。

 瞬間的に殺されるかもしれないと思ったが、杞憂に終わる。男はリンを一瞥すると、すぐに作業を再開した。

 まるでリンのことなど気にも留めていない。


 リンは、この男をなんとか秘密基地まで連れて行かなければならないと思った。

 試しに一声上げてみる。「にゃおん」という澄んだ声は、木々の中に虚しく消えていく。男は聞こえていないのか、聞こえているが気にしていないのか、何の反応も示すことなく作業を続ける。

 声が小さすぎたのかもしれない。今度は、喉が擦り切れんばかりの大声で鳴く。すると、男は緩慢な動きでリンの方へ振り返って、再び視線を落とした。

「やった」と思ったが、その次が続かない。達哉にそうしたように何かを咥えて逃げれば、ついてくるかもしれないと思ったが、男は鉈以外にめぼしいものを身に着けていなかった。リンが咥えて走るには、男の鉈は大きすぎる。


「なぁ~んだ? おまえさんは。野良か? この山に住み着いとるのか?」


 男は、ゆっくりと近づいてきて、膝を折ってしわくちゃの顔をリンに近づけた。


「なんだ? お前さん。人に飼われとるんか」


 男は、リンの首元で揺れる鈴を見て、一人納得したように首を振った。

 リンは、自分の考えを伝えたくて、必死で鳴いた。威嚇していると思われるかもしれないが、そんなことには頭が回らない。リンの頭にあるのは、ただ大切な場所で大野真凛を死なせたくない、誰も死なせたくないということだけだった。


「なんじゃ~? ワシがそんなに嫌いか? 人に飼われとる割には、人慣れしとらんのぉ」


 男の呆れたような声もリンの耳にはあまり届いていなかった。

 必死で訴えれば、自分の思いは届くはずだ。達哉たつやたちには届いたのだから——。


「どうか、アタシの思いを汲み取って!! お願い!!」


 しかし、いくらリンが鳴いても男は首をかしげるばかりだった。それでも、リンは必死に鳴き続けた。小さな体を精一杯揺らして訴えた。

 あまりに大きく身体を揺らしすぎたのだろう。その拍子に大事な鈴が、首から外れて地面に落ちた。達哉の留めた金具が緩かったのかもしれない。

 枯れんばかりの自分の声で、リンは鈴が地面に触れて鳴らす音に気が付かなかった。

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