第32話 天秤

 雅臣まさおみ弘大こうだい紗雪さゆき。三人の天秤が、悪意のほうにゆっくりと傾きかけたとき、リンは大きな声で鳴いた。蒸し暑い秘密基地に、悲鳴のような、けたたましいリンの声が響く。

 その声が、三人にかかった魔法を解いた。

 止まっていた時間が、突然動き出す。真っ先に動いたのは、雅臣だった。


「そんなのダメだよ!! とにかく、一度下ろそう。早く!! こうちゃん、さっちゃん。それに、たっちゃんも!! 早く来て、手伝って!!」


 雅臣に促されて、弘大と紗雪が動き出す。

 けれど達哉は、一歩も動かなかった。ただ、三人の動きを黙って見ている。

 リンは、雅臣が言った言葉を聞き逃さなかった。


 ——とにかく》下ろそう。


 深い意味はないのかもしれない。しかし、リンには、結論を先延ばしにする言葉に聞こえた。雅臣は、結論を天秤から完全におろしたわけではないのだ。ひとまず、どちらにも振れないよう手で押さえておこう。雅臣はそう言っているのだと感じられた。


 そして、達哉も雅臣の言葉をリンと同じように受け取った。だからこそ、動かなかった。


 達哉を除く三人は、噴き出る汗を拭おうともせず、必死で大野真凛おおのまりんを助けようとしていた。

 そんな三人の姿を見て、リンは、「達哉じゃなければダメなのに」と思っていた。

 大野真凛は、達哉に助けられることを望んでいた。しかし、その望みは叶わない。当の達哉が、助けることを拒否したのだ。


 リンは気がつくと頬の内側を噛んでいた。


 ——もし、目の前で真凛が死にかけてたら、浅川くんは真凛のことを助けてくれるかなぁ?

 無邪気に言った大野真凛を思い出す。首を縦に振って、肯定した自分自身の姿も一緒に思い出す。


 まさか、達哉が見殺しにするなんて、思いもしなかった。あの優しい達哉が——、冷酷ともいえる態度を取るなど夢にも思わなかった。


 リンは、大野真凛と仲良し四人組の微妙な関係を知らなかった。

 弘大が、大野真凛にいじめられていることも、そのいじめが、達哉にフラれたことによる腹いせ——と、一言で表現してしまうには、あまりにも複雑な感情に起因することも。

 リンは、何も知らなかった。リンは、自分がうまく間を取り持てば、大野真凛も仲良し四人組に加わることができると本気で信じていた。どうせなら、達哉だけではなく、全員とお近づきになればいいと心の底から思っていた。

 だからこそ、達哉だけでなく、全員をこうして秘密基地まで連れてきたのだ。結果として、それが大野真凛の命を救うこととなった。

 連れてきたのが達哉一人だったら、どうなっていたのだろう。想像するのが怖かった。


 三人は、首を絞めつけていた縄から大野真凛を開放すると、一斉にため息を吐いた。ぐったりした大野真凛は、衛生的とはいえない床に無造作に寝かされている。一見しただけでは、生きているのか死んでいるのか分からない。


「助ける必要なんかないって」


 冷たい声が秘密基地に響く。達哉の声だ。

 ついさっきまで蒸し風呂のように暑かった秘密基地が、一瞬にして凍り付く。リンは一度、身震いをした。

 達哉は、どこを見ているのか分からない、焦点の合わない目をキョロキョロと漂わせていた。


「たっちゃん……?」


 雅臣が呼びかけると、達哉は漂わせていた目線を雅臣に定めた。


「もういいだろ。さっさと帰ろう」


 全く温度を感じない声で達哉は言った。達哉の言葉にそんな効果があるはずはないのに、三人は凍り付いたように動かない。

 しかし、リンは自由に動くことができた。言葉を話せない代わりなのかもしれない。

 リンが近づくと、それに気が付いた達哉の視線が足元に落ちる。見上げると、達哉とまともに目が合った。その目には、色がなかった。ゴクリと喉が鳴る。


「帰ろう」


 もう一度、達哉がそう言って歩き出すと、それまで固まっていた三人は操られたように、けれど、確かな自分の意志で動き出した。

 三人は、不安そうに大野真凛を振り返りながら、達哉のあとについて、ついさっき入って来た扉の方に向かっていく。リンは、その様子をただ見ていることしかできなかった。

 四人の姿が完全に見えなくなったところで、ようやく頭が目の前で起こったことを理解する。天秤が、完全に悪意に傾いてしまったことをはっきりと理解した。

 四人は、大野真凛を見捨てたのだ。理由はリンには分からなかったが、四人を責めようという気にはならなかった。


 ふと、大事なことに気が付く。


 ——このままでは、大野真凛が死んでしまう。


 慌てて大野真凛の元に向かうと、大野真凛は苦悶の表情を浮かべていた。吊られているときは、あんなに幸せそうだったのに。大野真凛の表情はまるであべこべだった。下ろされた今のほうが、苦しそうな顔をしている。

 リンがどうすることもできずに、ただ見ていると、大野真凛の頬をツーッと一筋の涙がつたうのが見えた。


 この少女は、自分の願いが叶わなかったことを知っているのだ。それも最悪の形で。そのことをちゃんと理解しているのだ。


 ——助けたほうがいい。


 リンは直観的にそう思うと同時に、秘密基地から飛び出していた。

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