第35話 嫌いな音
それにもかかわらず、結局は降ってわいたように、リンの努力とは無関係に、その居場所を知ることとなった。
大野真凛が首を吊ったあの日以来、リンは何度か彼女の家を訪ねて行ったが、それまでのようにその家に歓迎されることはなかった。
リンは、そのとき初めてその家で自分を歓迎してくれていたのは、大野真凛だけだったことを知った。
いつも用意されていたマリンブルーの水受け。いつもリンの為に用意された水受けは、あの日以来、一度も用意されることはなかった。それどころか、家の中を覗き見ることもできない。
家の中の様子を知ることはできなかったが、数日通い続けたことで、分かったことがあった。いつもリンを歓迎してくれていた少女は、どうやらあの日以来、家に戻っていないらしい。
もしかしたら、助からなかったのかもしれないと思うと、ゾクリと背中の毛が逆立った。
しかし、大野真凛の母親と思われる人物が話している内容を聞いて、それが杞憂であることを知った。母親によれば、大野真凛は、どこかの病院に入院しているらしい。具体的な地名も言っていたのだが、リンの知らない地名だった。
出かけていく母親の車を追ったこともあったが、途中で力尽きてしまった。色々と試みてはみたが、リンの知らないくらい遠い場所で、おそらくは生きているのだということ以外に大きな収穫はなかった。
リンが大野真凛のいる病院を突き止めることができたのは、本当に偶然だった。だが、リンは、その偶然に大野真凛の意志のようなものを感じた。
大野真凛の家に通い詰めている間、リンは、毎日ではないけれど、
「よう! 今日は来たんだな。昨日は来なかったけど、なにしてたんだ?」
といった具合に、リンが訪ねていくと、あの日の出来事などなかったように振舞った。
けれど、そこに
中学に上がって以来、四人が揃って集まることが減ったのはリンも知っている。だが、それとは違った理由があるように思えてならなかった。
あの日のことが、影響している——。
基本的にはいつもどおりの達哉なのだが、変化もあった。ほんの僅かだから、注意して見ていないと分からないが、時折達哉の顔に影が差すことがあった。
そして、あの日以来、達哉は、ほとんど家の外に出なくなっていた。
一度、リンがいるときに家のチャイムが鳴ったことがある。
そのときの達哉は、チャイムの音にほんの少しだけ身体をこわばらせていた。おそらく、達哉の膝の上に乗ったリンでなければ、気が付かなかっただろう。まるで、予期せぬ訪問者に怯えているようだった。
そんな些細な違和感が、達哉の周りにいくつもまとわりついていた。
そんな中、一度だけ、誰が見てもすぐに分かるほど達哉の表情が曇ったことがあった。
始まりは、郵便配達のバイクの音だった。
忌々しいバイク。猛スピードで黒々とした煙をまき散らしながら、身体のすぐ横を通り抜けていく鉄の塊。何度命の危険にさらされたか分からない。その度にリンは、持ち前の野生の勘で難を逃れてきた。
けれど、このとき、リンが持つ野生の勘は、遠慮がちに、無視してしまおうと思えばできてしまうほど控えめに、でも、確実に、いつもとは違う音色の警鐘を鳴らしていた。
家の前で止まったバイクは、コトンと何かをポストに投函すると再び動き出した。リンの嫌いな音が、あっという間に遠ざかっていく。
バイクの音が完全に聞こえなくなると、達哉は、ゆっくりと立ち上がり、ポストへと向かった。リンは、達哉の温もりが残る場所でそのまま待つことにした。
間もなく戻ってきた達哉の表情は、誰が見ても分かるほど、曇っていた。
「なんだ……? これ……」
そう呟きながら、手には封筒を持ったまま、器用にリンを抱きかかえると、元いた場所に座った。リンは、元どおり達哉の膝の上に納まる形となった。
可愛らしい黒猫のキャラクターがあしらわれた封筒には、幼さの残る字で達哉の家の住所とともに、『浅川達哉くんへ』と宛名が書かれていた。
達哉は、中身を透視するかのように、じっとその封筒を見つめている。リンも達哉に倣って、じっと封筒を見つめていた。
達哉は、その後もなかなか封筒を開けようとしなかった。なんとなく、中身や差出人に想像がついているのか、躊躇しているように見える。
しばらくの間、所在なく封筒をゆらゆらと揺らしてから、意を決したのか、それとも観念したのか、勢いよく乱暴に封を切った。
中には紙切れが一枚だけ入っていた。
達哉は、その紙に書かれたあまり長くない文章をじっくり時間をかけて読むと、「ふぅ」と短く息を吐いた。そのまま、困惑と諦めの入り混じった表情で天井を見上げる。
「行くしか……、ないのか」
どこに行くつもりなのかが分からなかったから、達哉の独り言にリンは応えることができなかった。
文字を読むことができないリンが、その手紙が大野真凛の入院先を示し、必ずそこへ行くように指示したものであると知ったのは、それから数日経ってからのことであった。
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