第29話 使命
生ぬるい風が吹き抜ける中で、リンは、
「あそこで首を吊る」と、確かにそう言っていた。リンの目の前で確かにそう言ったのだ。聞き間違いではない。
あそこというのは、
大野真凛は、秘密基地で夏休みの初日に首を吊ると決めた。
どうしてそんなことをするのか。考えるまでもなく、リンには分かっていた。本人がその口で言っていた。
「
それは、かつてリンも抱いたことのある願いだった。
幸運なことに、リンはそれを叶えることができた。嘘でも方便でも、達哉に、仲良し五人組のみんなに、『仲間』だと言ってもらうことができた。
リンは、かつての自分と同じ願いを持つ大野真凛の力になりたいと思っていた。大野真凛にかつての自分を見ているようだった。
とはいえ、大野真凛が取ろうとしている方法は間違っている。それは、リンにも分かる。分かっていたが、リンにはそれを正す術がない。リンがいくら邪魔をしたところで、大野真凛はその強い意志で計画を実行に移すだろう。
それならば、せめて——。
計画の阻止は、諦めよう。大野真凛が死んでしまう前に、達哉に見つけてもらえばいい。見つけてもらって、大野真凛を助けてもらえばいい。
しかし、そのための具体的な方法は、なかなか思い浮かばなかった。
どうすれば、大野真凛が首を吊るタイミングで、都合よく達哉を秘密基地に連れていくことができるのか。理想を言えば、達哉だけではなく、他の三人も一緒の方がいいだろう。
だが、全員を確実に秘密基地に連れていくとなると、相当に難しいように思えた。
それでも——、リンはやらなければならないと思った。
大野真凛のためでもあったが、それ以上に秘密基地は、仲良し五人組の大切な場所だ。そんな大切な場所で誰かに死なれては困るのだ。大野真凛が秘密基地で死んでしまったら、大好きな達哉は、他のみんなは、秘密基地は、どうなってしまうのだろう。考えただけで、真夏だというのに寒気がする。
考え事をしながら、灼熱の太陽に熱せられたアスファルトの上を歩いていると、向こうから上品な毛並みの猫が歩いてくるのが見えた。
野良猫ではない。野良猫かどうか、リンにはすぐ分かる。鈴のついた綺麗な首輪をつけていた。
猫は、距離が近づくと、上品な毛を逆立ててリンを威嚇する。
「ごめん、ごめん。アタシは無害だよ。君の邪魔をする気はないよ」と、なるべくそちらを見ないようにしながら通り抜ける。そんなリンを見て、上品な毛並みの猫は、勝ち誇ったように体を震わせた。
首から下げた鈴が、チリンと乾いた音を鳴らす。その猫は、飼い猫である証をぶら下げていた。
音に釣られてそちらを見やると、上品な毛並みの猫はリンに背を向けて、既に反対方向へと歩き始めていた。
ふと、達哉が大切にしているキーホルダーを思い出す。大きな鈴の付いたキーホルダー。
よほど大切なものなのか、無くすことを極度に恐れているようだった。肌身離さず持ち歩くようなことはせず、時々思いついたように机の引き出しから引っ張り出しては、何かを考えるようにそれを眺めていた。
その様子をリンは、何度となく見たことがある。
——あれを持ち出したら、どうなるのだろう。
そう思った時には、もうその方法しかないとリンの心は決まっていた。
夏休み初日。大野真凛が首を吊ると宣言した当日——。
リンは、秘密基地と達哉の家、それから大野真凛の家のちょうど中間地点のあたりで、その時が来るのを待っていた。いつだって暇を持て余しているリンにとって、待つことはさほど苦痛ではなかった。
大野真凛が秘密基地に向かうとしたら、必ずこの場所を通る。
リンは、大野真凛が秘密基地へ向かうのを見届けてから、急いで達哉の家に向かい、達哉のキーホルダーを達哉の目の前で盗み出すつもりだった。
この場所に来る少し前、リンは密かに達哉の家に寄っていた。達哉が家にいることを確認するためだ。達哉は家にいて、特に出かける様子もなかった。
リンが考えた計画がうまく行く保証はどこにもない。リンは、計画が失敗に終わったときのプランBを用意していない。完全に出たとこ勝負の、危ない賭けだった。
にもかかわらず、リンには自信があった。自分の計画は、必ずうまくいく。大野真凛はその望みのとおり、達哉と現状よりも近づくことができる。少なくとも、友達になるきっかけくらいにはなるはずだ。そう確信していた。
昼過ぎの、最も暑い時間に大野真凛は現れた。
特に理由はないが、リンは見つからないようにその身を木の陰に隠す。蝉の鳴き声が耳元で聞こえた。
大野真凛は少し大きめのリュックを背負って、麦わら帽子を被っていた。とてもこれから自らの命を絶とうとしているようには見えない。
リンは、思わず自分の記憶を疑いそうになったが、中途半端に閉じられたリュックの口から、縄のようなものが飛び出ているのを見つけて、記憶が間違っていないことを知った。
ふわふわと浮ついたように歩を進める大野真凛の姿を見送ると、すぐに達哉の家に向かった。
達哉の家では、リビングで涼をとる達哉の姿を確認することができた。計画の第一関門を突破して、リンはひとまず安心する。
いつもどおり、少しだけ空いているリビングの窓から中に入る。達哉が、リンに気付く様子はない。階段で二階に上がり、達哉の部屋を目指した。何度も出入りしている場所だから、間違う恐れはない。
お目当てのものは、リンの記憶のとおり、達哉の机の引き出しの中にしまってあった。それを器用に取り出して口に咥えると、チリンと涼し気な音が鳴る。
あまりのんびりはしていられない。リンはしなやかな体を翻して、元来た階段を降り、達哉の元へ向かう。
リビングに入ると、鈴の音で達哉がリンに気が付いた。
「あれ? リン。いつの間に来てたの?」
リンはじっと達哉の目を見つめる。そんなリンの様子に、達哉は怪訝な表情を浮かべたが、リンが口に咥えているものを見つけると、これ以上ないくらい大きく目を見開いた。
その瞬間——。リンは駆け出していた。目指すは
みんなを秘密基地へ連れていかなければならない。
リンは「にゃおん」と一度だけ、達哉に訴えかけるように声を上げる。達哉が慌てて立ち上がるのを確認すると、柔らかい肉球で冷たいフローリングを蹴った。
——たっちゃん。アタシの後についてきて。
「ちょっと、リン!! それ……。おい、待てよ!!」
達哉の声を背中で感じながら、リンは一心不乱に走り出した。
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