二、天狗の羽
私の自室は、聖人の主房と
私は部屋に入るなり、小袖を脱ぎ捨て、身体を拭いた。足の指の間、一つずつまで。肌にまとわりつく快楽の幻影を、汗と共に拭い去る。たとえ欲情を自覚しようとも、先程までの熱は自ずから湧き出でたものではない。無理に引き出されたのだ。引き出す手から離れてしまえば、すぐに冷めていく。
だから、自分は穢れた存在ではないと言い聞かせていた。欲に身を任せる生命ほど、醜いものはない。知性も仏への
口を
小袖を羽織り、乱れた黒髪を心許なく留める元結を外す。
「――拾よ」
「はぁい」
気の抜けた返事と共に、南の障子戸が勢いよく開いて、漆塗りの髪結箱を手にした拾が入り来る。前年暮れより付けられた新たな部屋子は、
「いやぁ、おかえりなさいませ。失礼します。ささ、
夜であろうと、拾の声は静まらない。四尺の黒髪に
「義王丸さま、これ、見てくださいなぁ。さっき厠行こう思うて庭降りたら、なんや大きい羽ばたきの音しまして」
背後より差し出された藍染の手拭いには、一尺半余りにもなる大きな純白の羽根が置かれていた。薄汚れた古い手拭いの上で、白い羽根は、細かな毛束を一筋の亀裂なく絡め合い、
「白いですし、
長谷川の館では、矢羽根を採るための
「天狗なぞ、おりはせぬ」
「そないなこと、ありませんて。天狗に
「聞かぬ」
「あれあれ、深窓にお育ちですし、下々の噂なん、ご存知ないで良えんですけど」
天狗伝説は何処の里にもあるだろうが、法貴寺の位置する大和盆地の中央、
「――俺も拐われたいなんて思うてましたけんどねぇ。お迎えは来ず終い、もう二十歳ですわ。そも、きれいな子ほど拐われる言いますところ、自分の顔がどないなもんか、全くわかっておらなんだこと、可笑しゅうございましょうや」
拾が大きく笑い、髪を通して振動が伝わり来た。拾はよく笑う。低い鼻の付け根に皺を寄せて、よく焼けた肌に白い歯を見せ。美味しいかと聞かれた幼児が渾身の同意を述べる際に見せるような、一切のお澄ましがない笑い顔だが、声だけを拾えば、上背に相応しい低さを響かせるのだ。
私は、黒墨の目をした観音の微笑を思い出しながら、さも無関心な調子で尋ねた。
「そなた、拐われたかったのか……?」
「拐われてみたかったってだけです。ほれ、うち、まぁ貧しゅうございましたから」
滲んだ寂しさを誤魔化すように、笑い声が付け加えられた。
拾一家は、元は長谷川の荘民であったが、数年来、年貢の支払いが滞っていたため、前年の刈り入れを終えると同時に、作地は長谷川宗家の召し上げとなり、一家は揃って下人とされていた。
拾の手は止まらずに髪を整えゆく。決して力任せにせず、乱れた毛先を優しく解す。
「さっき
田を離れても、身に染みた作男の感性は消えないらしい。田植えは良いものだと、夢見心地な声が響く。
「
青空の下、弧を描いて飛ぶ早苗の束が目に浮かんだ。拾のおしゃべりはうるさいが、世間知らずに育った私にも浮き世の情景を描かせるような、美しい思い出話は嫌いではなかった。青い苗を胸に受け取った娘は、きっと良い笑顔をして、手を振り返したことだろう。拾も得意気に、並びの良い歯を見せて笑ったはずだ。
「楽しそうじゃの」
「ええ、楽しゅうございました。楽しゅうございましたわ。祭は良えもんです、祭の日の朝は何ぞ、野良猫まで晴れの顔して見えましてなぁ。それで――」
囃子の笛と
話す間に、櫛通しは終わり、髪には椿油が塗り込まれていった。
諸々、精を尽くして働くこの男の、最も手を掛ける仕事が朝晩の髪梳きだった。宝具を磨くような手付きで、毛先を整える。額の中央で振り分けた鬢は頬に添い、耳を隠して、ただ一本の余りなく肩に留められる。
「……ほんに、お美しい」
満ち足りた声が、肩越しに聞こえた。拾の詠嘆は、ほとんど毎日、日課のごとく繰り返されるのだった。手入れの名残に、毛先が撫でられる。
「俺、仙界には行かれませんでしたけど、ほんに思いますわ、義王丸さまにお仕えできるなんて、これ以上ない幸せ者じゃと」
「さようか」
「ええ。はぁ……御仏に愛された方は、何もかも違いますなぁ。功徳でしょうなぁ」
功徳。容貌も富貴の生い立ちも、大寺院の貫首となる一生も、全ては前世からの功徳と見做される。けれども、大抵の場合、この文言は外見の賞賛に使われていた。私は好かない。
「全ては
「えぇ、
一切の勉学を解さない拾も、私の度重なる説法に、凡夫の一言のみは覚えた。もっとも、それも理解の足掛かりとはならない。凡夫なぞには、生観音のご説は理解できぬ、それでも、ご説を聞かせてくれる生観音の慈悲よと、理解への思考すら放棄させていた。
「凡夫の俺には、義王丸さまがまこと美しゅう見えて、仕方ないのでございますわ。お許しくださいな。はい、終わりでございます」
拾が髪結箱を片付けだす。濃い眉毛が影を落とす細い目許には、他人と争いはしないだろう、穏やかな眼差しがある。欠乏するものはないように見えた。家族と別れ、下人に落とされ、この先、家を持つことも許されない。一生を寺にて終える定めだというのに――
「のぅ、拾……そなた、幸いな者じゃのぅ」
「義王丸さまのご法力にございます」
一念の疑いなく、私を愛してやまない目。私は、紙燭の灯に輝く黒い硝子玉の目に映る自身の輪郭を見ていた。拾の人格を見出ださないように。
「幸いとは、難解な問題じゃのぅ」
「ふふふふ……! まこと、義王丸さまは不思議なお方ですわ」
問答は、それだけのことだった。
障子戸を隔て、南の庇の間に眠る拾は、すぐに規則正しい寝息を立てた。それに合わせて私も呼吸していたが、一向に眠れそうになかった。真闇の中、薄衣の下で何度目かもわからない寝返りを打つ。
拾のことは、善い人間だと評価していた。素直で善良で、怠けることもなく一心に仕え、
純真さが、不快をもたらす。どのような不快か、なぜ不快に思うのか、詳細に言い表せないことがなお、苦しかった。愛すべき人格を備えた自身の
善き仏弟子でありたいと願いながら、天狗など知らぬと偽りを述べた。貧しい現状から抜け出すに、人ならざるもの、人智を超越した力に請い願うしかないとは、あまりに惨めで、弱き者たる証に思えたのだ。
逃れる手段、逃れた先で生きていく手段を持たないような者は、祈ることくらいしか許されない。我らは、欲望が交錯する世界で、誰かの欲望の一手となるべく働く他に、生きる術はない。
拾の家が年貢を滞らせていたのも、領主である長谷川党の当主が安禎に代わったことを遠因とする。安禎は隣接する諸氏族に対抗するため、年貢率を引き上げ、荘民への
荘園の境界線になっていた西の川は、氾濫によって大きく領内へと入り来た。そのため、新たな境界設定を巡って、西の国人とは小競り合いが起き、三人が死んでいる。橋の再架設では、二人が流された。私も
むしろ、祈りこそが第一義だった。武士である長谷川党は、諸々の業とは無縁でいられない。そのため、寺を建て、代々の貫首には当主の子弟や甥、従弟を送り込み、
寺と一族とに人生を捧げるささやかな恩賞に、稚児があったのだろう。私の許にもいずれ、一族の使命と善き仏弟子たる覚悟とを抱いた男児が送られて来ることをわかっていた。次代当主である兄の子か、もしくは、顔も知らない姉の子か――。選別の基準はひとつ、美しさ。生観音の継承は、決して途絶えない。
良寂聖人も、現貫首の稚児であった通り、その容貌は優れていた。それだけでなく、近代の長谷川党では随一と称される学僧で、慈悲深さも知られていた。
五年前、聖人の発案により、法貴寺内には
昼間の聖人は、疑いようもなく善き仏弟子だった。その聖人をしても、愛欲には抗えないとは、我が身の先行きに絶望を抱かせた。
私は、まだ見ぬ愛弟子へは、ただ教育のみを与えようと決めていた。けれども、自身の内なる変容――芽生えつつある情欲の実感が、恐れを抱かせる。やがて暴力に等しい愛欲となって、充てがわれた少年へと向かってしまうのではないかと。
寝付けない夜は更けゆく。朝の来ることが怖い。日が出れば、私はまた一歩、大人へと近付く。性愛の悦楽を、愉悦の眼差しに見下ろされていたことなど、まるで知らないような顔をして、生観音の微笑みを携え、経典を学ばなくてはいけない。
私は狭量で醜い凡夫だ。勉学は遥か良寂聖人に劣り、心根は拾に及びもしない。それが、ただ偶然にも美しい外見に生まれ付いただけで崇められ、見た目に即した振る舞いを求められ、犯される。
日中と、闇夜。聖の説法と、
焦燥は頭痛を呼んだ。痛みを紛らわせるため、整えられた髪に指を差し入れ、無造作に掻き乱す。私は、私を義王丸と見做させるもの全て――私に価値を持たせるもの全てを、焼き捨てたい心地がしていた。
私は自分というものが、わからなかった。自己の存在に、確信を持てていなかった。
私は、自身を
『亥の丸、亥の丸。そろと、そろと歩け』
菅笠の下で、唄うように笑っていた。
けれども、私は法貴寺にて稚児名を与えられる前は、
『捨殿がお母上さまは、捨殿をお生み賜いて間もなく、儚くぞおなり遊ばしける。それ故にお父上さまは、捨殿ばかりはと、お心込め賜いつとぞなむ』
捨丸と義王丸は、確かに繋がりを保つ存在だったが、亥の丸と捨丸とは、同時に存在し得ないはずだ。
私は、幼少期から心の中で、母は生きていると繰り返し唱えた。安禎と面会するたびに、この男は自分の父ではないと、自身に言い聞かせた。十六歳の今、安禎への隔たりは、表向き隠してはいるが、なお抱いている。それでも、既にその起因は忘れていた。母の顔を思い浮かべても、樫の木目が頬にある観音像ばかりが脳裏に映されるのだった。
――ケッペンカケタカ。ケッペンカケタカ。
どうと強い風が吹き、蔀を叩き鳴らす。天狗が寝ない子を拐いに来たのか。飛び回る声は、夜気の孤独に連れ去られそうなほどに、不安に胸を駆り立てる。
私は絹の掛け布に潜り、両耳を手で覆うと、天狗などいないと自身に言い聞かせていた。そうしなければ、私も、拐ってくれと願ってしまいそうだった。
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